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連載・特集

民の70年 第1部 秘密と戦争 <2> 幻の新天地

「王道楽土」の満州 浸透 苦境知らせる手紙没収

 沖縄戦が激化し、「本土決戦」が現実味を帯びていた終戦3カ月前の1945年5月。岡崎次郎さん(84)=広島県安芸太田町=は、開拓団員として父寿三(じゅそう)さん=当時(53)=と満州(現中国東北部)に渡った。

 6人きょうだいの一人息子。「石工だったおやじは『10町歩の土地をやる』との誘い言葉を信じた。若くないおやじを一人で行かせられんと思い、ついて行った」と岡崎さん。中国山地の農村では当時、農作物の供出が厳しく、主食は薄い雑炊か山菜。「村の暮らしよりはましと思ったのでしょう」と推し量る。

検閲文書4万件

 父子が参加した「太田郷開拓団」は、ソ連国境に近い東安省密山県(現黒竜江省)に入植した。団員は126人。広島県の開拓団では最終盤の渡航だった。

 広大な土地は、生活苦にあえぐ農民には魅力的に見えた。「王道楽土」「五族協和」。当時のグラフ誌やポスターは美辞麗句で「新天地」のイメージを全国に浸透させた。

 一方、満州の関東軍憲兵隊は、軍事機密だけでなく、現地の苦境を知らせる手紙も検閲し、没収した。国文学研究資料館(東京都立川市)の加藤聖文准教授(48)は検閲の実態を裏付ける憲兵隊の文書約4万件を中国・吉林省の公文書館で発見し、分析した。一部が焼却された状態で土の中から戦後、掘り出されたという。

 勤労報国隊島根中隊の一員だった男性が39年、島根県長久村(現大田市)の住民に宛てた手紙も検閲された。「雑誌又ハ講演ニ華(はなや)カナ移民団ノ生活ヲ報(ほう)シ或(あるい)ハ弁シテヰルカ決シテ華カテハアリマセン 又之ニ煽動(せんどう)サレテハイケマセン」。加藤准教授は「戦況が悪化する43年ごろから、生活の苦しさを訴える手紙の検閲がより一層、厳しくなった」とみる。

生還 わずか26人

 苦しい生活を打開しようと満州に渡った開拓団の運命が暗転したのは8月9日。ソ連軍が国境を越えて攻め入った。

 岡崎さんも惨めな逃避行を経験した。衣服にはシラミが湧き、オオカミにも襲われた。「ソ連軍や盗賊が襲ってくるから、武器を持つしかなかった。殺し合いですよ」。川に架かる橋はソ連の侵攻を恐れた関東軍が破壊しており、避難者の行方を阻んだ。

 岡崎さんの父は45年10月、長春(吉林省)で衰弱死した。現地は冬。「弔おうにも、穴も掘れない凍土の地。髪を少し切って持ち帰るしかなかった」。89年刊行の「広島県満州開拓史」によると、シベリア抑留経験者を含め、太田郷開拓団の生還者は、わずか26人だったという。

 46年9月に帰郷した岡崎さんは、父が残した家で今も暮らす。近所の広場では渡航前、にぎやかな壮行会があった。岡崎さんは「満州がどんな所か知っていたら、誰も行かんかっただろう」とつぶやく。(石川昌義)

(2015年8月10日朝刊掲載)

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