×

連載・特集

民の70年 第1部 秘密と戦争 <3> 同調圧力

義勇軍入り 教師が勧誘 満州開拓 国策逆らえず

 ソ連の国境近くの満州(現中国東北部)の辺境に10代の少年たちも送り込まれた。「満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍」として藤井要さん(86)=福山市=は1944年5月、満州に渡る船が出航する下関に汽車で向かった。その途中、広島県春日村(現福山市)の実家近くの沿線で見送る児童に向け、車窓から日の丸の小旗を投げた。

 旗には檄文(げきぶん)を墨書していた。「我今満州に赴く 汝(なんじ)ら我の後に続け」。勇ましく後輩を誘った藤井さんだが、心境は複雑だった。5人きょうだいの次男。兄が軍隊に入り、母親は「満州に行ったら生きて帰れない」と反対していたのだ。

志願の動機記録

 「3年訓練したら10町歩の土地をやる。『大陸の花嫁』も世話する」。藤井さんは、繰り返し勧誘する教師の言葉に従った。「行きたい気持ちと不安が半分ずつ。盛大な壮行会をしてもらい、気持ちが徐々に高ぶっていった」と振り返る。

 藤井さんが参加した義勇軍の生還者でつくる「桑田中隊拓友会」が94年に出した手記集は127人の「志願の動機」を記録する。「先生の勧めは少々ではなかった」「熱心な教師に心を打たれた」…。4分の3に当たる97人が、教師の存在を挙げた。

 「親の反対」を挙げた人も目立つ。昨年の解散まで拓友会の会長を務めた皿海(さらがい)久治さん(85)=福山市=も、父親から「勘当する」と止められた。

 志願兵の身体検査を不合格になった皿海さんは満州行きを熱望した。しかし、担任の教師はつぶやいた。「やめた方がいい」。だが、父親も教師も渡航反対の理由は告げなかった。

 「父の弟は移民先のブラジルで苦労した。先生は何人もの教え子を満州に送った。表だった反対は『非国民』となじられる時代。精いっぱいの警告だったのだろう」と皿海さん。満州では藤井さんとともに炭鉱に動員中、終戦を迎える。ソ連軍が侵攻し、46年夏の帰国まで辛酸をなめた。

地域で割り当て

 「義勇軍に送り出す人数の割り当てが地域ごとにあった。国策に反対できない空気が教師に広がり、やがて、送出の最大の原動力になった」と話すのは鳥取敬愛高(鳥取市)の小山富見男校長(63)。鳥取県史の編さんに携わり、義勇軍の経験者に取材を重ねた。

 教え子や親族に義勇軍への参加を勧めた教師の告白が、鳥取県からの派遣部隊の手記集にあった。社村(現鳥取市)の国民学校の教師だった男性は戦後、満州帰りのおいに刀を突きつけられた。「満州に行けと言いさえしなければ、こんな辛(つら)い目には遇(あ)わなかったものを」

 この教師は「懺悔(ざんげ)」として、こうつづる。「皇国護持と大東亜共栄圏建設のために、義勇軍送出に狂奔した。私の毎日の教育の中に何時も熱いものが流れていた。(中略)時代の流れとか、為政者の責任だとか言うのは卑怯(ひきょう)である」(石川昌義)

(2015年8月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ