×

社説・コラム

社説 川内原発再稼働 「なし崩し」許されない

 九州電力はきょう、鹿児島県の川内(せんだい)原発1号機を再稼働させる。東京電力福島第1原発の事故後に定められた新規制基準の下では初のケース。国内の原発が全て停止していたため、約2年ぶりの稼働となる。

 後を追うように、愛媛県の伊方原発など各地で再稼働への準備が進む。本来なら、川内原発が今後の範となるべき第1号だったはずである。だが、拙速ぶりが目立つ「あしき前例」として懸念を禁じ得ない。

 各種の世論調査では依然、原発再稼働への反対が多数を占める。4年半近くたっても収束が見通せない福島第1原発の事故の衝撃はいまだ国民の心に刻まれている。

 万一の際に被害に遭うのは私たちなのだ、と。その不安や批判の声に、九州電力や政府はどれだけ本気で向き合ってきたのだろう。

置き去りの住民

 川内原発では地元同意の範囲が狭められたことが何より疑問を招いた。立地自治体である薩摩川内市と鹿児島県の首長、議会に限って同意を得ればいいという手法は、福島第1原発の事故前と何ら変わっていない。

 鹿児島県内はもとより、隣り合う熊本、宮崎の市町から公開の説明会を求める声が上がったのも当然だ。取り合おうとしない九電の姿勢は、かえって疑心暗鬼を招いたのではないか。

 周辺自治体が作った避難計画に基づく訓練がなされないまま再稼働へ踏み切ることも問題だ。原発の敷地内では過酷事故を想定した訓練がなされてきたのに対し、住民の避難への備えが十分とは思えない。甲状腺の被曝(ひばく)を抑えるために服用する安定ヨウ素剤も、事前配布が間に合っていないという。

 国の側もおかしい。望月義夫・原子力防災担当相は「訓練の実施を原発の稼働条件と考えていない」と述べている。避難に混乱を極めた福島の事故から何を学んだのだろう。むしろ当時の検証から、避難訓練を徹底的に求める立場ではないか。

曖昧な最終責任

 つまるところ、誰が安全対策の最終責任を負うのかが、はっきりしていないことと決して無縁ではあるまい。

 一義的な責任を負うのは電力会社であるが、もし重大な事故が起きれば、巨額の賠償に耐えきれない。保険の引き受け手もなく、代わる仕組みづくりも進んでいない。

 政府は再稼働に関し、「政治的判断の余地がない」との見解を示す。あくまで技術的な判断を「第三者」である原子力規制委員会が行う制度なのだと。しかし当の規制委は「基準に適合しても事故は起きうる」「安全であるとは申し上げない」と、われ関せずだった感がある。

 その規制委の判断も本当に科学的といえるのか。川内原発では火山の噴火対策への疑問や批判が専門家の間に残ったままである。巨大噴火を過去に起こした周辺の火山について「危険性は低い」とする九電の主張を規制委はあっさり追認した。噴火の前兆を監視で捉え、運転を止めることができるというが、どこまで根拠があるのだろう。

被害者の視点を  結局、甚大な被害にしても賠償の負担にしても、付けは国民に回ってくることになる。

 原発の運転で生じる放射性廃棄物、いわゆる「核のごみ」についても同様である。最終処分の方法にめどを付けないままの再稼働は、安全神話が横行した時代への先祖返りにも映る。

 いま一度、福島の事故から得た教訓に立ち戻る必要がある。

 政府が設けた事故調査・検証委員会の最終報告書に、こんな一文がある。まさしく重要な教訓にほかならない。

 「事業者や規制関係機関による、『被害者の視点』を見据えたリスク要因の点検・洗い出しが必要であり、そうした取り組みを定着させるべきである」

 そうした視点を欠いている限り、安全が最優先という鉄則はなし崩し的に弱まりかねない。安倍政権や推進派の期待通り、きょうの再稼働が原発復権へ扉を開くことになるのを認めるわけにはいかない。

(2015年8月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ