×

連載・特集

戦後70年 志の軌跡 寄稿 堀場清子 原爆の惨禍をくぐり 忘れがたい女人の姿 <下> わが子の喪失感 逆照射

 「全身の皮膚(ひふ)はむけてしまつて赤い裸体がそこに立つてゐるではないか」

 ピカドンから2時間後だった。広島一中(現国泰寺高)1年生として、爆心地近くの疎開作業に動員され、もろに閃光(せんこう)を浴びた長男の眞澄が、段原中町の家にたどり着いた時の印象を、父の山本康夫氏が「幻」(『中國文化』創刊号、1946年3月10日)に記している。髪はすっかり焼け、顔はぶくぶくにやけどして、少年の本来の面影はなかった。「直感といふものがなかったら恐らく吾(わ)が子であることを否定したであらう」と。

 母の紀代子さんは、驚いて駆け寄り、ただはらはらとした。焼け下がったパンツをはさみで切り、ボロボロに焼けたゲートルを解き、床に寝かせる。少年はしきりに水を求め、夜の11時ごろ、かすかな息の下から突然に質問した。

 「本当にお浄土はあるの?」

 ギクリと、その言葉がどれほど鋭く父母の胸に突き刺さったか。「えゝありますとも、それはね戰爭(せんそう)も何もない靜(しず)かなところですよ、いつも天然の音楽をきくやうなとてもいゝところですよ」。紀代子さんは必死に説明した。少年はそれに恍惚(こうこつ)と聞き入り、「そこには羊羹(ようかん)もある?」と、無邪気な問いを発した。「えゝ、えゝありますよ。羊羹でも何でも……」。答える紀代子さんの声は、半泣きになっていた。

 「ほうそんなら僕は死なう」と、少年はいった。父はため息も出ず、母は石のように黙した。少年はもはや水も求めずに、口の中で念仏を唱えていたが、真夜中の12時、静かに息を引きとった。

立ち直れぬ打撃

 夫妻はすでに、7歳の次男を配給の缶詰中毒で失っていた。愛児2人を、「戦争は強奪してしまった」。それが夫妻に、とりわけ紀代子さんに、立ち直れない打撃を与えた。夫妻は共に歌人であり、康夫氏は歌誌「真樹(しんじゅ)」の主宰者だった。戦争末期から強いられた休刊を脱し、46年10月10日、「真樹」復刊号(第17巻第1号)を船出させる。紀代子さんの歌は、母の嘆きの一色に染まった。

逝きし子をかくも切なく戀(こ)ひやまぬわれとわが心哀れと思へり
うつつには亡き吾子(あこ)なれば夜の夢にせめて曾はなと〓(いの)りてねむる
子を焼きし煙も空になびきゐむかく思ひつつ立ちて見入るも

 さらに1年が過ぎても嘆きには休む暇なく、「八月六日」と題した47年10月号の歌には、あまりに嘆き続けるゆえの、夫婦間の不協和音もほの見える。

真夏日に照らされて熱き子らの墓水注ぎつつ胸痛きかも
吾泣くを疎み給ひてか小夜更けを黙して夫のいねましにけり

心情にやや変化

 48年に入るころには、紀代子さんも嘆きを重ねて疲れ果てたのか、心情にやや変化が兆す。時として現実に折り合おうとし、また嘆き、怒るなど、さまざまの心理が交錯する。4月号から夫への愛が歌われる。心が柔らかくなっている。“よきこと”への予兆であろう。そして6月号の「切なる願」。

悲しみは忘却の彼方に押しやりて今は生きたしの切なる願ひ
言ひ訳の余地もあらせず暖く蔽(おお)ひくるものに心ほぐるる

 「暖く蔽ひくるもの」とは、なにか。同じ号の夫君の歌が、それに答える。

乳母車妻は酔ふごときさまに押し吾は添ひゆき子に物をいふ

 親戚の女の赤ちゃんを養女とし、紀代子さんはふたたび母となった。

 私とこの歌との出合いは、80年代。米国メリーランド大プランゲ文庫の、日本占領期の検閲資料で見た。「酔ふごときさま」の一語が、私を刺し貫いた。以来、酔うごとく乳母車を押す女人の、哀切な姿が私のまぶたを去らない。喜びがあふれるほどに、原爆によって「赤い裸体」とされ、無残に殺されたわが子への、喪失感の深さが逆照射されている。(詩人)

(2015年8月11日朝刊掲載)

年別アーカイブ