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戦争知る責任 未来へ 中国地方ゆかりの作家対談 

沢地さん 体に染み付く恐怖の記憶/深谷さん スパイとその家族の苦難

 満州(現中国東北部)で幼少期を過ごし、防府市に引き揚げた経験を持つ作家沢地久枝さん(84)と、日本軍のスパイとして中国で任務を続けた父と家族の苦難をつづった本を出版した深谷敏雄さん(67)=広島市東区=の対談が、東京であった。中国地方ゆかりの2人が「戦争を語り継ぐ責任」をテーマに意見を交わした。(石川昌義)

 満鉄の社員だった父とともに4歳で満州に渡った沢地さん。「軍国少女だった」ころの記憶を「14歳<フォーティーン>満州開拓村からの帰還」(集英社新書)につづった。終戦間近の1945年夏、学徒動員先の開拓団で見た光景から語り始めた。

 「働き盛りの男は徴兵されて誰もいない。留守宅は女と子どもだけ。泥を固めたような家に住み、電気も届かない。日本人がそんなみじめな暮らしをしていることさえ知らなかった」。満鉄の社宅の外に広がる厳しい現実。「戦争は正しい。勝ち抜くために一生懸命働こう」と思っていた少女は「震え上がるほど怖かった」と感じたという。

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 その頃、深谷さんの父、義治さん(4月に99歳で死去)は上海にいた。中国人女性と偽装結婚。現地の商人になりすまし、情報収集や通貨偽造などの地下活動に従事した。敗戦後も上官の命令で中国に残り、58年に逮捕された。「密命を漏らさないという国への忠誠心」から黙秘を貫き、敏雄さんたち家族は困窮にあえいだ。

 「中国生まれの私は、父が日本のスパイだと思ったこともなかった」と敏雄さん。父が捕まり、兄も無実の罪で拘束された。文化大革命では、敏雄さんと弟が農村へ下放され、一家は離散した。日中国交回復による特赦で父の故郷である大田市に一家で戻ったが、敏雄さんは「日本が戦争をしなかったら、みんな幸せに暮らせた」と唇をかむ。

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 沢地さんは満州から帰国後、親族がいた防府市を経て生まれ故郷の東京へ。中央公論社の編集者や作家五味川純平氏の資料助手として戦時中の歴史に向き合う。敗戦後の記憶が、ふとした拍子によみがえったことがあるという。その場所は旧ソ連・モスクワの空港だった。

 「1972年のこと。作家の向田邦子さんと世界一周の旅行中、飛行機を降りてソ連軍の兵士の姿を見た瞬間、体が凍り付いた」。満州に侵攻したソ連兵のサーベルの切っ先を向けられた少女時代の記憶。「恐怖は頭ではなく、体に染み付く。どれだけ多くの人が戦争で傷ついた心と体を抱えて生きているのか、私たちは考えないといけない」

 深谷さんは「波瀾(はらん)万丈の一生を本に残す」という父の願いを引き継いだ。公民館の日本語教室で何度も文章を推敲(すいこう)してもらい、執筆に6年を要した「日本国 最後の帰還兵 深谷義治とその家族」(集英社)を昨年暮れ、世に出した。「深谷家の戦争はまだ、終わっていない」と力説する息子は、父のひつぎに「戦争のないところに生まれ変われるように」と書いた手紙を入れた。

 「想像を絶する、過酷な歴史」と読後感を語った沢地さん。「戦時下を生きていないことは、戦争を知らないことの言い訳にならない。作家大岡昇平さんの『戦争を知らない人間は、半分子供である』という言葉を思い出した」と締めくくった。

 対談は、集英社が戦後70年の節目に企画した。

(2015年8月12日朝刊掲載)

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