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連載・特集

被爆70年 思い伝えたい <7> 岡山市原爆被爆者会会長・平末豊さん=岡山市南区

今こそ声出そう 体験記に全力

 被爆体験を継承し、核廃絶を目指す運動を引き継ぐ次の世代を育てつつも、80代の私たちの世代が諦めたらいけない。もっと元気を出し、現役として活動を続けたい。

 三次市三良坂町出身。14歳の時、学徒動員で貨物の運搬作業をしていた広島駅構内で被爆した。建物の陰にいたことで幸い外傷はなく直後から10日間、負傷者の搬送作業に従事した。その後、高熱や脱毛などの症状が出て3カ月程度、自宅療養した。その後も体調不良を繰り返した。

 原爆投下後、府中町の小学校まで負傷者を搬送した。生きているのか、死んでいるのか分からない人ばかり。搬送途中に完全に息絶えた人は道端に放った。申し訳ないという感覚さえまひしていた。8月15日に寮で玉音放送を聞いた。言葉は聞き取れなかったが、戦争が終わると分かり、万歳をした。悲惨な状況から解放を願っていた14歳の子どもの正直な気持ちだった。

 戦後も国鉄に勤務し、国鉄労働組合の被爆者対策協議会の活動に加わった。1955年に岡山支社管内に異動し、岡山の被爆者の組織化や支援を求める活動を開始。54歳で退職後、本格的に岡山市原爆被爆者会の活動に関わり始めた。被爆70年の節目として現在、県内の被爆者の体験記発行に向けた編集作業に力を入れている。

 岡山の被爆者は差別を恐れ、名乗り出ない人が多く、被爆者健康手帳を取得しても平和運動には出てこない人が多かった。広島出身の私は「何くそ」という気持ちで声を出し続けた。昨年から被爆体験記を集め始め、95人の投稿があった。このうち7人は既に亡くなった。年内に発行し、多くの人に読んでほしい。

 県内の被爆者の平均年齢は81歳を超えた。私も残り短い人生だが、核廃絶を目指す運動を懸命に続けたい。被爆当時は幼く、自身の原爆の記憶はない70代前半の人が最近、会の活動を手伝ってくれるようになった。こういう人をしっかり育てたい。(永山啓一)=おわり

(2015年8月12日朝刊掲載)

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