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社説・コラム

『論』 戦争の本質を問う あの時代の「狂気」語り継げ

■論説副主幹・岩崎誠

 福岡市の中心部から少し離れた産婦人科医院に足を運ぶ。幸せそうな妊婦を見かけた。だが院内で開かれている資料展は、また違う意味で命の尊厳とは何かを根源から問うものだ。

 九州大で起きた「生体解剖事件」である。大戦末期の1945年5月から6月にかけて米兵捕虜8人に対し実験的な手術を行い、全員を死亡させた。この医院を営む東野(とうの)利夫さん(89)こそ医学生として現場に立ち会った最後の生き証人なのだ。

 そのことを悔い、悩みながら命を育む医師として働いてきたと聞く。仕事の合間に事件の真相を追い、詳細なルポ「汚名」(文春文庫)を著した文筆家でもある。この夏、足で集めた資料を公開したのは、戦後70年にして「平和への道は逆方向に向かっているのではないか」と感じるからだ。

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 遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルとなった事件である。会場には食い入るように見入る若者もいる。捕虜となった米兵の集合写真に当事者の手記。現物資料もさることながら、独自の視点から時系列で事件を追うパネル展示に引きつけられた。

 東野さんは事件の「発端」から流れを捉え直す。米軍が沖縄に上陸し、日本軍の捨て身の特攻作戦が沖縄周辺の米艦船に繰り返されていた。業を煮やした米軍が福岡の飛行場をB29で爆撃し、その帰途に日本の戦闘機の体当たりを受けて墜落。そして落下傘で山里に降下して命を拾った乗員が捕虜となり、生体実験のため九州大に回される。「機長以外は適当に処置せよ」との大本営の方針に従って。

 列島各地の都市が、米軍の激しい空襲に見舞われてもいた。そんな状況で「狂気のメス」はふるわれたことになる。大学の解剖実習室での計4回の実験と解剖に関する説明は生々しい。うち2回を目撃し、一部を手伝わされた東野さんの確かな記憶が反映されているからだ。

 陸軍と大学の医師がもたれ合うように行った手術で、まず犠牲になったのは村人からの暴行で負傷した米兵だったという。「無差別爆撃をした戦時重犯罪人だ」と軍の参謀が語気を強める。新しい手術法を試すため右肺を摘出し、「人間は片肺を取っても生きられる」と平然と言う執刀者。やがて大量の血液が抜かれ、動かなくなる―。

 「本土決戦」による血液不足を見越し、海水を使う代用血液の実験の場でもあった。軍には逆らえないし、捕虜などどうなってもいい。新しい実験もしてみたい。思いが交錯する中で、人の命を救う医療の本質を忘れたことにぞっとしてしまう。

 もう一つ驚かされるのは、広島の原爆とも妙な形で関わることだ。終戦後、占領軍の追及を恐れた軍人たちの保身のための隠蔽(いんぺい)工作である。実験に使った捕虜たちは広島に送られ、原爆によって全員が死んでいたことにする。そんな見え透いたうそで通そうとしたのだ。

 だが事件は米側に発覚し、横浜の戦犯法廷で裁かれる。大学側の14人と軍人9人が有罪となり、手を下した外科の教授は取り調べ中に自決する。誰が命じたのかという点で、被告同士の責任のなすり合いもあったようだ。米側が一方的に裁く中で、起訴内容には明らかなでっち上げも含まれていた。

 法廷で証言台に立ったが、自身は罪に問われなかった東野さん。自らの手で真相に迫ろうと続けてきた熱意には敬服する。あのB29が落下した山あいに通い詰め、口を閉ざす住民から当時の証言を集める。地元の人と一緒に碑を建てる。そして生き残った機長も探し当てて米国で対面を果たした。

 「戦争というものは、しょせん悲惨と愚劣しか残らない」。長い時間をかけて、全容に近づいた老医師の言葉である。

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 医師の責務と真逆の事件をタブー視する声は地元の関係者に今も強い。4月には九州大に医学歴史館がオープンし、事件に関する展示に踏み切ったが当初の構想より縮小され、戦後の大学側の対応を紹介する資料2点だけにとどまっている。

 だが戦争がもたらす「狂気」を未来への教訓として語り継ぐ意味は、かつてなく重くなっているのではないか。

 いまの若い世代には現実問題として戦時下の空気が実感できなくなっている。象徴的なのが特攻だろう。最近の映画やドラマなどを見て「かっこいい」と受け止める向きも少なくない。命を簡単に捨てる悲惨さを棚上げし、美化された物語に心動かされるのだろう。

 そうした中で、安全保障関連法案に反対する若者たちのデモに関して自民党議員から「戦争に行きたくないというのは利己的」といわんばかりの時代錯誤の暴言も飛び出した。

 戦争の本質が、いつしか忘れられていないか。つまるところ殺し合いだ。憎しみと報復の連鎖の中で行動がエスカレートする。次第に良心を狂わせるが、おかしいと感じなくなる。正気のつもりで人道に反する行為でも手を染めてしまう―。

 さまざまな負の歴史が思い出される。中国東北部において捕虜に細菌実験を繰り返した731部隊のこと。多くの人たちを苦しめながら、国際法で使用が禁じられた毒ガスを製造し続けた大久野島のこと…。

 米国はどうだったのかとの問いも当然、浮かんでくる。

 B29による焼夷(しょうい)弾の無差別爆撃で無数の市民を焼き殺した。常軌を逸した爆撃もあったはずだ。8月1日から2日にかけての長岡、富山、水戸、八王子への空襲は米軍史上、最大級の爆弾使用量だったと伝えられる。しかし戦略上はさほど重要ではない都市の攻撃であり、日本空襲を指揮したカーティス・ルメイ将軍の昇進を「祝う」爆撃だったとの見方もある。

 「戦争とは人を殺すものだ。十分に殺した後に敵は手を上げてくる」。事実、ルメイは言い残している。まさしく広島・長崎に結び付く考え方だろう。とりわけ長崎への2発目の原爆投下はプルトニウム爆弾の効果を試す「人体実験」の色合いが濃かったともいわれている。

 戦後70年を経て、そうした戦場の発想がなくなったとは到底いえまい。

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 ことし出版された「九州大学生体解剖事件」(岩波書店)にも印象深い話が載っていた。助教授として4回の実験の一部に関わり、絞首刑の判決を受けながら減刑された鳥巣(とりす)太郎という医師。そのめいにあたる元高校教諭の熊野以素(いそ)さん(71)が、東野さんとは別の角度から事件の真相を追ったルポである。

 出所後に福岡で医院を営んだ伯父は、憲法の教科書を読んでいた大学時代の筆者に強い調子で口にしたという。「憲法の解釈はただ一つだ」「日本は永久に戦争を放棄したのだ」と。

 戦争に翻弄(ほんろう)されたゆえの心の叫びだろう。焼け跡の誓いが揺らぐ今だからこそ、恥ずべき歴史から目を背けたくはない。

(2015年8月13日朝刊掲載)

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