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連載・特集

経済人たちの戦後70年 <3> 万惣(広島市佐伯区)・山本一男会長

「良い物を安く」一筋 健康な食べ物を追求

 幼少期を今の北九州市で過ごした。戦況が悪化すると毎日のように、米軍の戦闘機グラマンが飛来し、機関銃で人や建物を狙い撃ちする機銃掃射をした。下校時の同級生も殺された。戦闘機の音が耳を離れない。

 私ら国民学校の3年生から下は、空襲警報が鳴るとすぐ帰らされた。上級生は学校を守るために残る。グラマンが近づくとゴーゴーと響き、キーンという音を出しながら低空飛行して操縦席の近くにある機関銃をダダダダダと撃った。

 八幡製鉄所が近くにあり、工業地帯だったからだろう。真っすぐ逃げると背後から狙われるから、キーンと言いだしたら、とにかく横へ走って逃げた。自分の身を守るための子どもの知恵よね。

 時々空中戦があって、飛行機が山に墜落すると、友達と見に行った。遺体が散乱していても、米軍機が落ちていたら「やった」と喜び、日本軍だったら悲しむ。子どもも精神状態がまともじゃなかった。戦争は本当にむごい。

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 山本一男会長の2人の叔父は、南方の戦地で亡くなった。生前、帰省した軍服姿の叔父を見て、軍人への憧れが募った。

 軍服をぴしっと着て、軍刀を身に着けて、格好良かった。戦地の惨めなことは一言も話さんから、私も大人になったら兵隊さんになるんじゃ、と思ったね。本当の平和を目指すなら、教育が基本。日本を良くしようと真剣 に考える人を育てれば、みんなが幸せに暮らせる国になる。

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 一家は終戦間際、祖父の出身地、安浦町(現呉市)へ移り住んだ。山本会長は高校卒業後、1958年に牛田(広島市東区)で青果店を開き、後に兄弟4人で法人化した。75年にスーパー万惣を設立。商品を箱ごと並べる安売り店「ボックスストア」を考案してチェーン展開し、80~90年代に急成長した。

 戦後のガタガタしよる時だったから、おふくろが「食べ物の商売だったら絶対食いはぐれがない」と言うので青果店を始めた。親と兄貴の蓄えで小さな家を借りて、空き箱の上にキュウリや大根を並べてね。

 何にも分からんでも創意工夫よ。良い物を安く、気持ち良く売ったら、どんどんファンが増えて繁盛した。直接お客さんに物を売って、たくさん買ってもらえる楽しさは忘れられん。

 戦時中はとにかく食べる物がなかった。ごちそうといえば塩を付けた米ぬかのまんじゅう。あのひもじさが染み付いているから「良い物を安く」が商売の目標。裕福ではない人にも、安心して安全な物をたくさん食べてもらいたい。

 野菜は35年くらい前から可部地区(安佐北区)の農業組合と契約して仕入れている。農薬をできるだけ使わずおいしい野菜を育てるため、組合の人たちが理想的な土壌をつくった。私は農家の人の生活が懸かっとるから一生懸命売った。

 みんなに健康で長生きしてもらうため、微力ながら少しでも多くの人に貢献する。これが私自身の生きがいであり、この世に生かされている者の務めだ。

やまもと・かずお
 基町高卒。1960年、兄弟4人で青果店富屋を始め、75年、万惣を設立。90年、社長に就任した。2008年から会長。北九州市出身。

(2015年8月13日朝刊掲載)

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