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戦争の記憶いま語る 広島市西区の岡田さん 特攻艇、原爆…話さなかった70年

 戦後70年の節目の年、家族にも話していなかった戦争の記憶を語りだした人がいる。広島市西区の岡田政(ただし)さん(91)。旧海軍の特攻兵器「回天」の訓練基地があった山口県平生町で終戦を迎えた。古里の広島に戻ると街は原爆で焼き尽くされ、父は行方不明に。「戦争はいけん」。平和への思いを強くしている。(鈴中直美)

 東京薬学専門学校(現東京薬科大)を卒業直後の1944年10月、海軍の「武山学生隊」に入隊した。45年3月に長崎県の大村湾にある臨時魚雷艇訓練所に移り、魚雷艇や特攻艇「震洋」の操縦訓練を受けた。

 薄いベニヤ板で作ったボートの前方に弾薬を載せ、米艦隊に突っ込む特攻艇。「海軍と聞き、大きな軍艦を想像していたが、震洋があまりにも粗末な作りで驚いた。生きて帰れんなと実感した」と振り返る。

 それでも怖いと思ったことは一度もなかった。「軍隊に入っていずれ死ぬと思い込まされて育った」からだ。新聞で頻繁に「玉砕」という文字を目にするようになっても「日本は勝つ」と信じていたという。

 45年6月下旬、回天での出撃を命じられ、平生町の基地に移った。しかし、既に回天も燃料も不足し、出撃することなく終戦を迎えた。

 広島に戻ると、原爆で己斐本町(現西区)の自宅は半壊していた。母と祖父母は無事だったが、薬剤師だった父はあの日の朝、警報を聞いて救護所に駆け付け、行方不明になったという。収容所を捜し歩いたが、今も見つからないままだ。

 「あの頃とは時代が違う。話しても分からないだろう」。この70年間、口を閉ざしてきた。だが今、安全保障関連法案が国会で審議され、戦争に巻き込まれるという不安や反対の動きが広がりを見せている。「母校の修道中の同級生も半数が犠牲になった。戦争は絶対いけんよ」

 多くの命を奪った特攻艇と原爆の記憶。「20歳で死ぬと思ったのに90歳を超えて生きている。尋ねられれば、話してみようと思う」

(2015年8月14日セレクト掲載)

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