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社説・コラム

『潮流』 いとし子よ

■論説委員・東海右佐衛門直柄

 山あいの細い道を上る。雲南市三刀屋の丘に、かやぶき屋根の家はあった。映画にもなった「長崎の鐘」を書いた永井隆の実家だ。

 その生涯は映画ファンならずとも多くの人が知っていよう。長崎への原爆投下後、医師として不眠不休の救護に当たった。焼け跡で妻の骨とロザリオを拾い、6年後に幼い2人の子どもを残して世を去る。

 日本国憲法にひときわ熱い思いを持っていたことはどこまで知られているか。読み取れるのが「いとし子よ」(アルバ文庫・サンパウロ刊)の一文である。

 子どもたちに、こう語り掛ける。戦争を始めた大義はすぐに消え、戦後にようやく人々はむごい結末に気付いたのだと。そして憲法の非戦の誓いは「戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだ」。

 続く言葉は今を見通していたように思える。「国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないともかぎらない」「もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない」

 死の2年前である。幼いわが子への遺言でもあったのだろう。「誠一(まこと)よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、叫び通しておくれ!」とも。

 故人となった2人の生きざまを見ると訴えは継がれていよう。誠一さんは時事通信の記者として世界を股に掛け、長崎で永井隆記念館長になる。「カヤノ」こと茅乃さんも父の訴えを広める活動を続けた。

 終戦70年にして今、憲法9条を骨抜きにしかねない政治の動きが進んでいる。

 私にも2人の「いとし子」がいる。帰宅後、静かに寝顔に見入る。この子たちが大人になる時代、戦争の惨禍を繰り返してはならない。そう思いを新たにする。

(2015年8月15日朝刊掲載)

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