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連載・特集

民の70年・中国地方ゆかりの3人に聞く 過去からの警鐘 

 国家機密が社会を覆う。上からの誤った情報を信じた人々が互いを監視する。そんな窮屈な世の中が戦前、戦中の日本だった。終戦の日から70年。国家に縛られ、傷つき、傷つけ合った歴史を繰り返さないために、私たちは過去に何を学ぶのか。そして、戦争の記憶が風化していく今とどう向き合うのか。中国地方ゆかりの3人に聞いた。

広島大大学院教授(日本近現代史) 布川弘さん(57)=広島市中区

考える習慣 放棄するな

 広島大で十数年来、平和をテーマにした「ヒロシマ学」の講義を受け持つ。ここ数年、排外主義的な発言をする学生が増えたと感じている。

 「日韓併合で朝鮮が近代化してよかった」などと、戦前を正当化する意見が目立つ。単純な話を好む傾向もあり、ゼミでの議論で「ややこしいことを考えない方がいい」と発言する学生がいるくらいだ。分かりやすい「反中嫌韓」が受け入れられる土壌がある。

 思考を深めようとしない学生には、それなりの背景があると分析する。

 ある学生は高校時代に「差別にも理由はある」と作文に書き、職員室で注意された経験を話した。なぜかを考えずに「差別はいけない」と定型の意見を書く方が評価される。自分の頭で考えた形跡がなく「二度と戦争はいけない」と、うわべだけ発表する学生は多い。

 時勢に合わせて思考を停止するなら、戦時中と変わらない。考える習慣を放棄していると、「反中嫌韓」のような分かりやすい言説をすり込まれてしまいがちだ。

 終戦から70年を経て、被爆地広島での異変も感じ取る。

 NHKの5年ごとの世論調査でことし、広島市で「原爆投下はやむを得なかった」と答えた人が「今でも許せない」を初めて上回った。「原爆投下が戦争終結を早めた」というストーリーは、占領期から米国が広めたプロパガンダだ。原爆を投下するため米国が意図的に日本の降伏を遅らせたことや、ソ連の参戦が降伏の決め手だったことは、歴史家が既に検証している。

 戦後70年の今頃になってこのプロパガンダを受け入れる人が増えたのは驚きだ。被爆者が減り、体験を聞く機会も少なくなり、分かりやすいストーリーの影響力が増しているのだろう。

 外交問題で国民が過熱するときもプロパガンダによる情報操作が起きやすいと警鐘を鳴らす。

 中国との関係でいえば、満州事変に国民は喝采を送り、2010年の尖閣諸島での中国漁船衝突事件は対中国強硬論に火を付けた。時の政権は外交問題を国民を束ねる道具として利用する。安全保障関連法案をめぐる国会審議での安倍政権もそうだ。当初は中東・ホルムズ海峡の機雷掃海を例に法案の必要性を説明したが、後になって中国の脅威を説きだしたのは「国民の理解を得やすいから」と戦術を転換したためだろう。

 戦前のような露骨な情報統制でなくても、情報は常に発信者の意図によってコントロールされている。事実に照らし合わせて考えを深めようとする姿勢が何より求められる。(馬場洋太)

ぬのかわ・ひろし
 1958年山形県生まれ。神戸大大学院文学研究科博士課程単位取得退学。広島大助教授を経て、2006年から現職。

終戦後、満州から防府市に引き揚げた作家 沢地久枝さん(84)=東京都

国の体質 戦前と同じ

 昭和史と向き合い、時流に翻弄(ほんろう)される人々の苦しみを描き出す作家は、少女時代を満州(現中国東北部)で過ごした。「戦争に協力して死ぬのは当然」と思う「軍国少女」だったという。

 私が生まれた翌年は満州事変。中国で反日感情が高まる中、父が南満州鉄道職員だった私は4歳のころ、一家で満州に渡った。時代の風圧なんて子どもには分からない。国民全員が与えられた情報をひたすら追い掛けていた時代。批判的な考えを持つことすら考えたことがなかった。

 満州で終戦を迎え、ソ連軍に追われて避難生活も体験した。防府市の親族宅に身を寄せ、生まれ故郷の東京に戻った。

 しばらくは生き抜くことに必死だった。帰国後、18歳で出版社に就職し、初任給で家永三郎の「新日本史」を買った。終戦を知ったとき、私は「神風は吹かなかった」と落胆した。自分がなぜ、そんな考えをしていたのかを知るため、勉強しようと。戦時中は何も知らされなかったことに気付くまでに時間がかかった。

 1961年、勤務先で言論テロが発生する。深沢七郎の小説「風流夢譚(むたん)」の皇室描写を「不敬」とする右翼が社長宅を襲撃した。

 社長に私服刑事の護衛が四六時中、張り付いた。社員との距離が隔たり、社長の気持ちはなえたと思う。事件のあった年の暮れ、雑誌「思想の科学」の天皇制特集の発行を会社は中止した。雑誌の見本を持った営業畑の役員が「これでいいのか」と詰め寄るような職場になった。テロリストの目的は「これを言ったらやられる」という萎縮した空気を社会に広げることだ。

 退社後、作家として沖縄密約も取材した。

 沖縄返還交渉当時の佐藤栄作首相と米国のニクソン大統領は多くの密約を交わした。沖縄への核持ち込みに関する密約文書を首相の遺族が保管していたことを2009年、次男が明らかにした。明るみに出た密約すら日本政府は否定する。「よらしむべし、知らしむべからず」という戦前の悪い体質を受け継いでいる。

 安全保障関連法案の強行採決、特定秘密保護法の施行…。現在の政治手法を「強権的」とし、「あしき風が吹いている」と表現する。

 強行採決の直後、安倍晋三首相は新国立競技場の建設計画を白紙に戻し、国民の目をそらそうとした。原発事故の汚染水が海に流れ続けているのに「アンダーコントロール」と胸を張ったのも首相だ。「お上がやることに間違いはない」という信仰は今でも根強い。でも、お上が間違ったから戦争は始まり、戦争に負けた。

 安保関連法案に反対する国会前での集会でマイクを握った。

 強権で国民を黙らせ、相互監視させた戦前と違い、今は表だった思想調査もない。デモも遠慮なくできる。自由な社会だからこそ一人一人が試されている。一瞬が積み重なって歴史になる。私たちは今、どんな時代を生きているか、考えてほしい。(石川昌義)

さわち・ひさえ
 1930年東京都生まれ。49年、中央公論社入社。63年に退社後、作家に。代表作に「妻たちの二・二六事件」「密約」「滄海(うみ)よ眠れ」「記録ミッドウェー海戦」など。86年に菊池寛賞。

満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)事務局長 三沢亜紀さん(48)=尾道市出身

リスク 目を背けた国民

 因島市(現尾道市)で生まれ育ち、平和教育を身近に感じて育った。結婚を機に移住した長野県で、ケーブルテレビのリポーターとして満州の元開拓団員の体験を聞き取った。

 長野県は全国最多の約3万8千人が開拓団や青少年義勇軍の一員として満州に渡った。終戦後の集団自決の体験談が強く印象に残っている。女性や高齢者、子どもが互いの首を絞め、最後は殴り合って命を絶つ。取材した当時、私は幼い子ども2人の子育て中。「私ならどうする」と思うようになった。広島では学校で原爆について学んだが、自分の身に引きつけて戦争を考えたことはなかった。

 満蒙(まんもう)開拓平和記念館は、満蒙開拓に特化した全国唯一の展示施設だ。

 不況や不作で閉塞(へいそく)感に満ちた日本より、満州に自由を求めて人々は渡航した。証言を聞いた女性は「満州では『嫁さん』ではなく『奥さん』と呼ばれることがうれしかった」という。ムラ社会を離れ、広い土地でのびのびと子育てをする。あこがれる気持ちも理解できる。

 しかし、満州にも現地の住民の営みがあるという視点が欠落していた。多くの渡航者が「満州に行けば家も土地もある。私たちは現地人を使う立場」と思っていた。収奪同然の安値で土地を買いたたいていることに思いを巡らせなかった。

 満州の新天地イメージを定着させ、渡航熱をあおった主体として、教師や行政の役割に注目する。

 よかれと思って渡航を勧めた人が多い。若い真面目な教師ほど、満州に理想を求めた。一方で高齢の教師には違和感もあったようだ。「考え方が古い」「社会を悪くした世代に言う資格はない」…。慎重派の意見が排除され、一つの方向に流されていった。

 満州での収奪の実情を知り、開拓団の派遣に消極的だった村長もいた一方で、国による財政支援を信じ、送出ノルマに従った村長もいた。この2人の村長は、戦前では珍しいリベラルな学習会「伊那自由大学」の参加者。同じ教育を受けていても、正反対の方向に向かう。時流は恐ろしい。

 「国策」である満蒙開拓には戦時中、約27万人が参加。シベリア抑留や中国残留孤児などの悲劇につながった。

 多くの人が国の方針を信じた。多くの自治体が事業に疑問を感じていても国に従った。国策という言葉の前に、リスクに目を背けた。原発や米軍基地、市町村合併…。満蒙開拓の歴史は、今の問題や社会の風潮と重ねて考えさせられる。(石川昌義)

みさわ・あき
 1967年尾道市生まれ。東京での会社員生活を経て、94年に長野県飯田市へ移住。満蒙開拓平和記念館が開館した2013年から現職。

(2015年8月15日朝刊掲載)

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