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引き揚げ孤児が明かす半生 広島県府中町の元校長白石さん 「同じ苦しみ負わせぬ」 安保法案に危機感も

 広島県府中町の元小学校長白石春雄さん(80)が、現役時代には一切明かさなかった自らの生い立ちを語り始めた。日本統治下の台湾で両親と死別し、被爆後の広島で生きることになった「引き揚げ孤児」。その境遇を理由にいじめられた。その記憶が、自立してからも半生について口を閉ざさせた。「戦争はその時だけで終わらない。子どもたちに同じ苦しみを負わせたくない」。戦後70年。語り継ぐ意義をかみしめている。

 「ここで育った。それがコンプレックスだった」。広島市中区基町の広島城西堀そばで、白石さんは話す。多感な時期を過ごした広島新生学園(元引揚民孤児収容所)の跡地。「9歳で孤児になり、人生が変わった。思えば、片意地を張って生きてきました」

 日米開戦の翌1942年春、台湾の日本人学校に入った。熊本出身の両親と兄、妹2人の6人家族。平穏な暮らしは戦況の悪化で一変する。爆撃を避け、洞窟に逃げ込む日々。しかも家族は相次ぎ、マラリアに倒れた。44年11月に父親、45年6月には母親が他界。13歳から3歳まで、子ども4人だけが生き残った。

 終戦から半年は山中の孤児収容施設へ。蛇やカエルを捕まえて空腹をごまかした。46年春、引き揚げ船が着いた先が縁もゆかりもない焼け野原の広島。今の南区宇品に収容所を開いていた上栗頼登さん(95年に76歳で死去)に救ってもらった。

 居場所ができても試練は続く。6月、すぐ下の妹=当時(7)=が亡くなった。栄養失調。担いだひつぎの軽さは忘れないという。収容所は西区草津を経て、基町に移転。通った小学校では石を投げられ、机の下で足を踏まれた。中高時代は「負けてたまるか」と猛勉強した。

 「支えてくれた学園には感謝しかない」。園生で初めて国公立大学へ進み、教職に就いた。96年の定年まで、子どもと向き合った36年は幸せだった。が、不安もあった。「過去が知れたら色眼鏡で見られると」

 心が動いたのは年を重ねてから。日本水彩画会の会員として絵を教える日々。月1回、保育園児の絵も見る。「未来のため誰かが話さんと、と思って」。2011年から知人に請われ、市内の私大で体験を証言している。最近は、安全保障関連法案をめぐる動きにも危機感が募るという。「戦争は命の取り合いに終わらない。生き延びた者にも厳しい生活が続くんです」。経験者だからこそ、その言葉は重い。(田中美千子)

(2015年8月15日朝刊掲載)

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