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連載・特集

経済人たちの戦後70年 <5> ヒロテック(広島市佐伯区)・鵜野俊雄相談役

復興広島は車とともに 技術力磨き海外評価

 社名のヒロテックには「広島にあるテクニックを持つ会社」という意味を込めた。現在、欧米やアジアの9カ国に拠点を持ち、自動車用のドア部品や、部品の生産ラインの製造を手掛けている。

 具体的な話をしなくても、世界中の人がかつて広島で何があったかを知っとる。だから、海外で仕事をすることを考えて社名をヒロシマから取った。今では、復興した広島の企業の技術力を広くアピールできたと思っている。

 原爆が落ちた時、おふくろは東観音町(広島市西区)の自宅にいた。屋根がつぶれて足が挟まれて動けない時に、通り掛かりの人が引っ張ってくれた。家は焼け、ふくらはぎの肉がえぐれたけれど、助かった。僕は筒賀村(現安芸太田町)の親戚の家に疎開しとった。もし観音におったらどうなっとるかね。

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 ヒロテックは1932年、回転椅子の金具や金庫を造る鵜野製作所として創業した。転機は、52年。東洋工業(現マツダ)から部品箱を受注し、2年後、三輪トラックのドアを造るようになった。マツダが自動車を量産するのに伴い、ヒロテックも大きくなった。

 原爆の後じゃけえ、物がない。だからゼロからの出発。材料の鉄板もないから、おやじは呉市に駐留しとったオーストラリア軍から、ドラム缶を分けてもらい、それを延ばして、金庫や保管庫を造った。子どもだけど僕も手伝った。

 54年に四角い鉄板のドアを造った。それまで三輪トラックにドアはなかったから、マツダ車のドアができた一発目はうちですよ。60年代後半、マツダの量産に付いていくために、生産設備を近代化し、自動化した。要はね、広島の技術力の原点は量産。それまでは家内工業的だった。

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 76年に会社を引き継ぎ、米国や韓国、メキシコなど、海外で生産拠点を増やした。米ゼネラル・モーターズ(GM)やドイツのメルセデス・ベンツなど名だたる自動車メーカーから、継続して仕事を受けている。

 技術力だけじゃない。ずっと耐えて、誠心誠意お客さんのためにやっとる所に、仕事が連続して来る。「海外に出る」「ベンツのドアを造る」。いつのまにか夢は実現したね。

 米国もメキシコも、最初は商社の助けを借りて、恐る恐る。失敗したら帰るつもりで出た。事務所から始めて、少しずつ出る。それが海外進出のこつですよ。マツダの下請けとして培った技術が、口コミで国内に広がり、海外でも認められた。

 91年から広島商工会議所の常議員を約20年間務め、副会頭も経験した。もっと経済界が地域のまちづくりを引っ張るべきだ、との思いを抱く。

 世界が称賛する広島の復興は、企業も一生懸命に頑張ったから実現した。行政だけに任せていたら、まちづくりはなかなか進まん。カネも出すが口も出す。それが経済界のあるべき姿だと僕は思う。そうすれば、広島はもっと良い街になる。(桑島美帆)=おわり

うの・としお
 広島大工学部卒。1958年、広島プレス工業(現ヒロテック)入社。76年に社長、2000年に会長に就任した。12年から現職。1988年12月~91年11月に広島商工会議所副会頭を務めた。広島市中区出身。

(2015年8月15日朝刊掲載)

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