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連載・特集

戦後70年 継承しまね 浜田からの伝言 郷土資料館友の会会員に聞く <上>

 戦後70年の節目に、浜田市黒川町の市浜田郷土資料館で開催中の戦争企画展(30日まで、月曜休館)で、戦時を体験した市民がボランティアでガイドを務めている。いずれも同館友の会のメンバー。うち5人に次世代に伝えたいメッセージを2回に分けて聞く。

吉中克吉さん(81)=浜田市原町

戦地へ漁船 苦難の歴史

 浜田漁港近くで生まれ、国民学校1年で太平洋戦争開戦を迎えた。港からは多くの漁船が軍の「徴用船」として出港した。「戦争のためなら当たり前と思っていた。軍国主義を徹底的に刷り込まれた時代だった」と振り返る。

 漁協の資料によると、1941年に46隻あった底引き網漁船のうち、戦後残ったのは20隻に満たない。親戚の男性も徴用船に乗り45年2月、ラバウル(現パプアニューギニア)の病院で亡くなった。親戚から憤りの声は聞こえなかった。「反戦的な言動は許されなかった時代。本当は悔しかっただろう」

 自身も予科練の志願者がまぶしく見え、国民学校の先生に「軍隊へ行く」と宣言したこともあった。

 終戦後、浜田水産高に進学し53年、浜田漁業協同組合の職員になった。「船が大きくなって、魚がどんどん捕れた」という活況期を支えて、94年に退職した。

 現在、漁獲高はピークの90年から半減している。「苦難を乗り越えた歴史を思い起こし、漁業復活に一丸で取り組んでほしい」(森田晃司)

植本耕吉さん(80)=浜田市栄町

消えた旅館 祖父の無念

 1945年7月、浜田市栄町で祖父又四郎さんが経営していた植本屋旅館が建物強制疎開で解体されるのを目の当たりにした。「終戦が1カ月早ければ壊されず、家族の人生は変わっていた」

 当時の栄町は、陸軍関係の面会客らでにぎわっていた。敷地が約300平方メートルを超す木造2階建て旅館。欄間には見事な細工があった。大相撲の巡業で横綱たちも宿泊。「力士に抱きかかえられた記憶がある」と思い出す。

 その旅館が取り壊されたのは、10歳の夏だった。路地を拡張するためと、近所の十数軒と共になくなった。「男たちが屋根の瓦を落とし、柱にのこぎりを入れて縄で引き倒した。ショックだけ。悲しさはなかった」。解体の数日後、終戦を待たずして祖父は病死した。

 関西の料亭で修業した後、58年に飲食店を開業。76年には旅館の跡地に支店をつくった。支店は今、四男の敏正さん(41)が切り盛りする。「無念のまま亡くなった祖父は、同じ場所で再び飲食店をやっているのを、そっと見守ってくれていると思う」(城戸昭夫)

(2015年8月15日朝刊掲載)

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