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連載・特集

戦後70年 継承しまね 浜田からの伝言 郷土資料館友の会会員に聞く <下>

河上直良さん(91)=浜田市宇野町

水害でも救命は二の次

 浜田市の陸軍連隊に入隊して10日もたたない1944年9月、市中心部を水害が襲った。その前年9月、水害で死者・行方不明27人が出ていた。「人命を救いたい」と思っていたところ、上官から思わぬ指令があった。「酒造所に行け」

 午前中、川の増水で浸水しかけた酒造所に数人で行き、1階から2階まで瓶やたるを運んだ。作業を終え「さあ街の復旧へ」と気合を入れ直したが、次の指令はなかった。

 「人的被害は軽微」(浜田市誌)だったが、市街地で氾濫し、多くの橋が流された。「酒は貴重品だからと一応は納得したが、困っていた人がいたはず。ずっと心に引っ掛かっていた」

 真っ先に将校の家に行き、その妻を背負い救出した隊員がいたと戦後、聞いた。「結局、階級を一つでも上にするためのごますりが大切だったんだ」

 「一億一心」とは掛け声ばかり。軍は庶民のことを気にも掛けなかったと胸に刻んだ。兄は妻子を残し、ニューギニアで戦病死した。「人の命が羽毛のように軽く扱われる時代が二度とあってはならない」(森田晃司)

鹿田かをるさん(84)=浜田市相生町

「加害」悔やみ続けた夫

 27歳だった1958年1月、陸軍で中国を転戦し、シベリア抑留を経て中国の戦犯管理所から帰還したばかりの正夫さんと見合い結婚した。10歳年上だったが「彼は戦後日本のことを何も知らなかった。14年の空白を埋めてあげたかった」。

 中国帰還者連絡会創設者の一人だった正夫さんは81年、戦地で民間人を殺したことなど加害の証言を始めた。十数年たって初めて証言を聞く機会があり、涙ながらに自らをさらけ出す姿を目の当たりにした。「普段は優しい人。戦争は人を鬼にしてしまう」。むなしさが心に染みた。

 証言に疲れた顔や、夜中にうなされている姿を見るのはつらかった。だが「自分が加害を語らなければ」という意思を尊重した。「子どもたちにこんな父だったと教えてあげて」。書き残すことを勧めた。2011年春、「自分史 私と戦争と」を書き上げた夫は、翌年1月に亡くなった。

 「被害者はもちろん苦しい。けれど加害者も苦しんでいる。戦争は誰も幸せにならない」。加害を悔やみ続けた夫を思わない日はない。(西村萌)

神山典之さん(87)=浜田市錦町

特攻兵器 人の命を冒涜

 「死ななくて済んだ。古里に帰れると思いほっとした」。特攻隊員の訓練中だった1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送で終戦を知った時のことを、こう振り返る。

 旧制浜田中(現浜田高)を中退し、鳥取県の美保海軍航空隊の飛行予科練習生に。45年7月、長崎県の川棚突撃隊へ移った。受けたのは、人間機雷「伏龍(ふくりゅう)」の訓練だった。

 海中に潜み、上陸しようとする敵の船に機雷付きの棒を突き上げて自らの命とともに吹き飛ばす。水際作戦の装備は、粗末なゴムの潜水服にずさんな設計の酸素供給器。別の隊での訓練中の事故死も耳にした。「兵器とはとても言えない代物。人の命を冒涜している」

 上官に命じられて書いた遺書には「死にたくない」。数日悩んだ末の本音だった。

 戦後は家業の写真館を継ぎ、仲間との撮影活動を通じて真実を伝える大切さを学んだ。「命は平等。憎み殺し合ってはならない」。悲惨な戦争へ突き進んだ過去を繰り返さないため、記憶を次世代へ語り継がねば、と思っている。(江川裕介)

(2015年8月16日朝刊掲載)

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