×

社説・コラム

『今を読む』 原爆ドームの70年 継承を拒む苦悶 想像せよ

■立命館大教授・福間良明

 原爆ドームの周囲は美しく整備されている。敷地内には芝生が敷き詰められ、遊歩道には柳やツツジが植えられている。広島の観光ガイドブックの中には、元安川を行き交う水上遊覧船とドームを収めた写真が掲載されていることが少なくない。今のドームは、どことなく心地よく眺め得るものにも見える。

 しかし戦後間もない頃の原爆ドームは、むしろ薄気味悪く、おぞましさを思い起こさせるものであった。広島平和記念都市建設専門委員会の委員長意見書(1950年ごろ)には「原爆によつて破壊された物品陳列所[原爆ドーム]の残骸は、その現状決して美しいものではない。平和都市の記念物としては極めて不似合のものであつて、私見としてはこれは早晩取除かれ跡地は奇麗に清掃せらるべきものである」と記されている。

 平和記念公園は丹下健三の構想案に基づいている。そこでは、平和大通りから原爆資料館、原爆慰霊碑の先に原爆ドームが眺められるように設計されていた。しかし、丹下プランの具体化を検討する委員長でさえ、原爆ドームの撤去を公然と語っていた。

 同様の議論は、広島のメディアでも少なからず見られた。「夕刊ひろしま」などには「悲惨以外のなにものでもないような残ガイ」「広島市のド真ん中に薄気味わるい幽霊屋敷然としてたっている旧産業奨励館のドーム」という記述があり、それを「早急に取りのぞく」ことの必要性が示唆されている。被爆遺構を目にすること自体を拒もうとするほどの体験の重さを、そこに見ることができよう。

    ◇

 こうした状況に変化が見られるのは、60年代後半である。自然倒壊の懸念が高まったことも相まって、ドーム保存の募金運動が高揚した。当初は盛り上がりを欠いたが、最終的には、目標の4千万円を大きく上回る6600万円が集まった。折しも、原水禁運動はソ連や中国の核実験への評価をめぐって内紛と対立が激しさを増していた。そうした中、ドーム保存は、政治的な焦点を棚上げできるものとして見いだされた。だが、そこに抑圧や忘却が見られなかったわけでもない。

 65年7月29日付の中国新聞は「被爆した市民のなかには『ドームを見るたびに、あの惨状を思いだして不愉快になる』など保存反対の声もかなりある」と報じている。だがドーム保存の世論が高まる中で、こうした情念が顧みられることは少なくなっていく。

 原爆ドームが視界に入ることに耐えがたい苦しみを覚える当事者は、決して消え去ったわけではない。とはいえ、ドーム保存という「正しさ」を帯びた議論の前に、それを拒絶できないような空気が生まれていたのかもしれない。

 さらにいえば、ドーム保存とは何を保存するものだったのか。広島大助教授(当時)の松元寛は70年8月3日付中国新聞寄稿「被爆体験の風化」でこう述べている。

 「工事は、ドームが風化して急速にくずれようとしているとき、その風化を防ぐために最新の薬剤で補強したのであったが、風化が中絶すると同時に、ドームは突然その生命を失ったように私には見えた」「1945年8月6日の体験の遺跡としての意味は失われて、それは戦後数多く建てられた記念碑と同じものに変ってしまった」

    ◇

 保存工事によって、壁の亀裂は埋められ、柱の傾きは補正された。周囲には遊歩道や噴水、小広場が設けられた。しかし、こうした整備が、どれほど往時の体験のおぞましさを伝え得るのか。松元は「風化は防がれたのではなく、かえって促進されてしまった」と読み取っていた。

 原爆ドームは、撤去されるよりは、保存されるべきものではあっただろう。だが、その中で、何かがそぎ落とされることがなかったかどうか。

 「戦争体験の継承」はよく論じられる。だが、かつて体験は、そうやすやすと「継承」できるものでもなかった。今日のわれわれにとって心地よい「継承」だけではなく、それを拒もうとするほどの往時の苦悶(くもん)をいかに想像するか。原爆ドームの戦後史は、それを現代にむけて物語っているようにも思える。

 69年熊本市生まれ。京都大大学院人間・環境学研究科博士課程修了。専攻はメディア史。著書に「『戦争体験』の戦後史」「『聖戦』の残像」。近刊は広島、沖縄、知覧などの戦跡を扱った「『戦跡』の戦後史」。

(2015年8月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ