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社説・コラム

『論』 8・6報道の表現 決まり文句 見直したい

■論説委員・石丸賢

 今月7日付の本紙朝刊1面は、戦後70年を迎えた広島市の平和記念式典の様子をトップで伝えた。その書き出しを覚えておられるだろうか。

 「戦争で初めて米国が広島に原爆を落として70年となった…」

 式典の直後に会場周辺などで配った特報1面でも、「米国が広島へ原爆を落として70年…」とほぼ同じ表現を通している。加害責任の所在を端的に明らかにした、直球勝負である。

 それに比べると、昨年の朝刊1面は「広島の街に米国の原爆が投下されて69年となる6日…」だった。受動態のせいか、いささか持って回っていた。

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 似たような読後感に戸惑った覚えがある。被爆の2年後、日本を占領していた連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサー元帥が広島市民に寄せたメッセージである。「広島の上に今までにない強力な武器が投下された(略)あの運命の日のもろもろの苦悩はすべての民族のすべての人々に対する警告として役立つ」

 翻訳文が、受け身で書いてある。当時は、米国に矛先を向ける報道にGHQがにらみを利かすプレス・コードの制約下だったことも影を落としているのだろうか。

 では、その制約が解けている被爆20年、30年といった節目の8・6報道はどうだったか。

 「20年前のいま、アメリカの戦略爆撃機B29エノラ・ゲイ号のボタンは8時15分30秒に押された」(1965年、夕刊)

 「世界史上、初めての原爆が投下され、痛ましい地獄図が描かれてから30年」(75年、同)

 「人類史上、初の原爆が投下されて40年」(85年、同)

 「人類史上で最初に核兵器の惨禍を体験したヒロシマは」(95年、特報)

 2005年になって、やっと「米国による原爆投下から60年」(朝刊)と投下国を名指ししてのストレートな筆致が見える。

 「被爆者や遺族はなぜ、米国への憎しみをもっと口にしないのだろう」。県外育ちの私には不思議でならなかった。9・11米中枢同時テロの雑感取材で、被爆者の一人が「一瞬、『ざまを見ろ』と思った」と胸の内を明かしたというこぼれ話も耳にしていた。

 ある先輩記者はこう、たしなめた。「被爆者は、憎しみを核兵器廃絶の訴えに昇華させてきたんだよ」「憎しみからは何も生まれない」。戦後の平和運動が生んだ、結晶のような言葉には頭が下がる。その境地が、現実を変えていく原動力となればいい。

 もちろん、救いはある。あまたの市民を無差別に虐殺する核兵器について、5年に1度の核拡散防止条約(NPT)再検討会議のたびに、その非人道性を問いただす議論が高まりつつある。

 8・6報道のことしの書き出しも、そうした国際世論を受けてのものだったようだ。「憎しみからは…」を地で行く動きをつくり出したいものだ。

 一方で、ぐらつく足元に対する危機感も込められていよう。世論の変質である。

 本紙企画「ヒロシマは問う 被爆70年」の高校生アンケートで、原爆の是非について広島の生徒の3割(三つまでの複数回答)は「日本が始めた戦争の結果」を選んだ。「日本の敗戦は目に見えており、投下の必要はなかった」の選択率は米国や東京の生徒と比べ、突出して低かった。

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 NHK放送文化研究所の調査でもことし、原爆投下を「今でも許せない」とする回答は、5年前に続いて、広島、長崎両市民ともに全国平均よりも少なかった。

 先の大戦で日本が戦った相手国を問うても米国の名が出てこない若者の話を耳にする昨今である。共通認識が薄らぐ中、これまでは「言わずもがな」で通してきた事柄もいま一度、再確認が求められているのだろう。

 本紙紙面でも、この時代にこそ、ふに落ちる表現を探り、編み出していかねばなるまい。私たち戦後世代が実感の伴わぬまま、「あの日」「被爆の実相」「記憶の風化」といった決まり文句に頼るのも考えものかもしれない。心してかかる必要がある。

(2015年8月20日朝刊掲載)

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