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戦時下の空 米軍監視記録 岡山の正本さん方保管 焼却命令従わず 福山空襲の記述も

 民間人も戦時体制に組み込まれた太平洋戦争中、米軍機の飛行監視に当たっていた岡山県牛窓町(現瀬戸内市)の男性が、飛行記録をつづった書類を自宅に隠し持っていた。監視活動に責任感を持ち、約20キロ離れた岡山市街地を焼き尽くした1945年6月29日の岡山空襲の被害を悔やみ続けた男性は、終戦直後に軍や警察が「記録を焼却せよ」とする命令に従わなかった。(石川昌義)

 男性は牛窓町で写真館を営んでいた正本安彦さん(87年に70歳で死去)。牛窓防空監視哨の哨長だった正本さんは、44年11月21日から45年8月15日までの監視記録をまとめた「敵機捕捉状況綴(つづり)」や、軍への電話報告に使ったメモを戦後も持ち続けた。

 記録類は写真館を継いだ長男仁さん(73)が今も保管している。仁さんは「どんな気持ちで記録をどこに隠していたか、生前の父はほとんど家族に語らなかった」と明かす。

 警察が全国に設けた防空監視哨では、住民が監視業務に当たった。活動を記録する書類は戦後、軍と警察の命令で多くが焼き捨てられたとされる。正本さんと交流があった岡山空襲資料センター代表の日笠俊男さん(81)=岡山市中区=は「正本さんは『自宅の庭に穴を掘って埋めた』と言っていた」と回想する。

 日笠さんが編集を担当し、2冊の「状況綴」の内容を転載した「岡山戦災の記録2」(76年)によると、牛窓防空監視哨は1700機以上の米軍機を捉えている。機種や飛行方向、気象も記録。1737人以上が死亡した岡山空襲や福山空襲(8月8日)の記述もある。

 日笠さんは「正本さんは責任感が強く、国民を守る仕事を一生懸命したという自負があった。『いいかげんな仕事じゃない。だから、焼けと言われても隠したんだ』と語っていた」と振り返る。

 岡山県の空襲被害を調べる日笠さんは、米軍側の資料と正本さんの記録、さらに住民証言を突き合わせて被害実態を確認する作業を今なお続けている。「何を言われようと書類を焼かなかった正本さんの責任感は強く記憶に残っている」と日笠さん。正本さんの記録は、終戦前に焼け野原の岡山市街地に駆け付けた正本さんが撮影した写真と合わせて今夏、岡山市が開いた空襲展でも公開された。

(2015年8月23日朝刊掲載)

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