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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 奥本博さん―きのこ雲に「命の危険」

奥本博(おくもと・ひろし)さん(85)=広島市中区

親が残した本通りの土地。店再建へ奔走

 「自分だけでなく周りも苦しい状況(じょうきょう)。悲しんで涙(なみだ)を流す余裕(よゆう)はなかった」。15歳の時、原爆で両親を含む家族6人を失った奥本博さん(85)。一人残されても本通り商店街(広島市中区)に住み続けようとした理由は、両親たちが残してくれた土地から絶対に離れまいと決めたからです。戦後、店の再開に向け奔走(ほんそう)しました。

 修道中3年だった「あの日」、仁保(にほ)町(現南区)の木材集積場(爆心地から約4・1キロ)に学徒動員されていて被爆しました。まばゆい光に続き「ドーン」という音と爆風。とっさに目を押さえ耳をふさぎ、地面に伏せました。北西の陸軍(りくぐん)兵器(へいき)補給廠(ほきゅうしょう)(現広島大霞(かすみ)キャンパス)の弾薬庫(だんやくこ)が爆発したのか―。しかし、その先の比治山の向こうから、きのこ雲が湧き、こちらまで覆(おお)いかぶさるかのよう。「命の危険を感じた」

 自宅は播磨屋(はりまや)町(現中区)の金物店です。友人と街中へ歩き始めました。手袋を脱がしたように皮膚(ひふ)の垂れ下がった人たちと次々すれ違います。火の勢いが強く、比治山橋から先に進むのを諦め、尾長(おなが)町(現東区)の伯母の家へ。庭の防空壕(ぼうくうごう)で夜を明かしました。

 翌7日、友人と別れて自宅を目指しました。自宅の周りは焼けて何もなくなっていました。家の敷地に足を踏み入れると、がれきの底はまだ燃えていました。

 空襲(くうしゅう)に備え、三滝(みたき)町(現西区)に避難(ひなん)していた祖母カヨさんと親戚の家で会い、家族の消息を尋(たず)ね歩きました。状況が分かるにつれ、諦めざるを得ませんでした。

 自宅の土蔵で被爆した38歳の母寿子(ひさこ)さんとは8日頃、播磨屋町の避難連絡場所になっていた可部町(現安佐北区)で再会。けがはなかったものの、食欲が衰(おとろ)え、黒い下痢(げり)をして14日朝、亡くなりました。足をさすったのが最後の思い出です。

 店にいた43歳の父、八重蔵さんは、玖波(くば)国民学校(現玖波小、大竹市)に収容されていたことが判明。15日に玖波町の役場に行き名簿(めいぼ)で名前を見つけました。しかし12日に死亡したとの記述。遺骨が入った白木の箱を受け取って帰りました。

 土橋町(現中区)あたりで建物疎開(そかい)の作業中だった文子(ふみこ)さん=当時(13)、袋町国民学校に登校していた克彦さん=同(8)、直通さん=同(6)=のきょうだい3人は遺体も見つかりませんでした。店の下の土の中で見つかった小さな骨は妹の妙子さん=同(4)=と決めました。

 「祖母と生きていこう」。覚悟(かくご)を決めました。保険会社や役所への手続きのため、学校に行く余裕はなく中退。年末に高松市の叔母の家に祖母と身を寄せました。

 広島に戻ったのは1949年。51年春に祖母も亡くなり本当に一人きりに。その秋、同い年の陽子さんと結婚しました。土地を売って金を工面。問屋で商売を学び、62年に元の場所に店を開き、念願を果たしました。「生まれ育った大切な場所で再建する目標があったからこそ頑張れた」。ただ、時代の流れを考え、2代続いた金物店は諦め、紳士(しんし)洋品店に替(か)えてのスタートでした。

 仕事は順調でしたが、生活スタイルの変化などもあり、次第に右肩下がりに。陽子さんが2001年に71歳で病死したのを機に閉店しました。

 「広島市播磨屋町12番地」の旧住所は、名刺(めいし)の裏に印刷するほど愛着があります。1発の爆弾で街を焼け野原にした戦争には絶対に反対です。「国民が『嫌だ』と声を上げられず、人の命より国の利益を考えようとすると、歴史は繰り返される。若い人が大変な目に遭(あ)わないよう、この記憶を伝えていきたい」(山本祐司)



私たち10代の感想

たくましさ見習いたい

 被爆後、自分の力で生きようとした頃の奥本さんは、私と同じ10代でした。たくましさに驚(おどろ)きました。広島市民としての誇(ほこ)りが、少年の心を支えたのではないかと思います。私も奥本さんを見習い、困難に負けない勇気を持とうと決めました。被爆3世として、この歴史が繰り返されないよう伝えていきます。(中2溝上藍)

想像超す悲しさ感じた

 小学4年で祖父が亡くなった時、私は悲しさを受け止めきれず、涙が出ませんでした。それでも、後から悲しさが襲ってきました。「一度に家族6人を亡くしても、悲しむ余裕はなかった」という奥本さん。想像を超えてしまいます。心で受け止め切れないほど戦争が奪うものは大きいのだと、気付かされました。(高1正出七瀬)

戦争反対 訴える力必要

 原爆で家庭を失っても、被爆前と同じ場所に住み続ける奥本さん。古里本通りへの愛が伝わってきました。今の政治には戦争に向かう流れを感じるそうです。「このままでは戦争に反対できない未来を迎えてしまう」と心配していました。僕たち若者には「古里を容赦(ようしゃ)なく奪(うば)う戦争はいけない」と訴える力が必要です。(高2松尾敢太郎)

(2015年8月24日朝刊掲載)

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