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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 朴南珠さん―韓国・日本 被爆者は同じ

朴南珠(パク・ナムジュ)さん(82)=広島市西区

差別経験 周囲の支えで生き抜いた

 「広島の街が一瞬(いっしゅん)でなくなってしまった。惨状(さんじょう)、という言葉では言い尽(つ)くせない光景でした」。爆心地から約1・9キロの福島町(現広島市西区)の自宅近くで被爆した在日韓国(かんこく)人の朴南珠(パクナムジュ)さん(82)。思い出すのがつらく、10年余り前まで体験を語らずにいました。原爆の悲惨さを伝えようと決めたのは、脳裏(のうり)に刻まれた「あの日」を繰(く)り返したくないという思いからです。

 進徳(しんとく)高等女学校(現進徳女子高、南区)の1年生でした。6人きょうだいの長女で、当時の名前は「新井奈美子」。日本の植民地支配下にあった朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では「創氏改名(そうしかいめい)」で多くの人が日本名を持っていました。

 8月6日は、1年生は学校が休みでした。妹と弟を疎開先の廿日市市の親類(しんるい)宅に連れて行こうと、3人で福島町の電停から路面電車に乗って間もなくのことでした。米軍のB29爆撃機(ばくげきき)の音が聞こえました。ピカッと閃光(せんこう)が走り、大きな火の固まりと「ゴォー」というすさまじい音が電車を包みました。必死になって外へ出ると、大量の粉じんで霧(きり)がかったよう。頭から血が流れていたのに、痛みの感覚さえありませんでした。

 福島町内の家は爆風(ばくふう)で壊(こわ)れ、数日間は川土手で野宿を強(し)いられました。目の前の河川敷(かせんじき)では数え切れないほどの遺体が焼かれました。負傷者の傷口からうじがわき、体が腫(は)れ上がっていました。「原爆による死に、人間の尊厳(そんげん)などありませんでした」

 当時、広島には朝鮮半島から来た人が大勢住んでいました。今の韓国慶尚南道出身だった亡父在京(チェギョン)さんも、職を求めて1929年ごろ海を渡(わた)って来ました。だから朴さんは広島生まれ。軍国教育を受け、「日本は神の国。戦争に負けるわけがない、と心から信じていたのです」

 被爆から9日後、近所の家から漏(も)れ聞こえてきた玉音(ぎょくおん)放送で敗戦を知りました。悔し涙を流した朴さんに、父は「解放だ」とぽつり。物静かだった父の朝鮮人としての胸の内を知りました。

 戦争が終わると、近所の人たちは次々と帰国しました。しかし朴さん一家は広島に残り、原爆で行方不明になった伯父(おじ)を捜(さが)しました。バラックに身を寄せ、イモを蒸して闇市で売りました。父は肉体労働でわずかな収入を得ました。

 朝鮮人だからと差別を受けたことはあります。終戦後も苦労しました。生き抜いてきたのは、「優しかった学校の先生、つらいとき助けてくれた周りの人たち…、たくさんの思いやりに支えてもらったから」。19歳で六つ年上の夫と結婚し、4人の子どもを育てました。

 2002年に夫と死別。同じ頃、帰国後も苦労を重ねた韓国の被爆者の力になろうと、日本の被爆者健康手帳を取得する手伝いを始めました。平和記念公園(中区)で修学旅行生に声を掛(か)けられ、その場で原爆投下後の広島の様子を話しました。それを機に次世代に伝えようという心境になりました。「被爆者の苦しみに日本も韓国もない。核兵器と戦争は絶対に駄目」。力の限り証言を続けていく決意です。(有岡英俊)

私たち10代の感想

若者の聞く姿勢が大切

 70年前の「あの日」の光景はあまりにおぞましくて誰にも話せなかったそうです。しかし13年前、修学旅行の小学生から声を掛けられてから気持ちが変わったといいます。若い世代から被爆者の体験を聞こうとする姿勢が大切だと知りました。僕も、体験を聞き、記事に書いて周りに伝えていきます。(中2川岸言統)

「国のため」想像できぬ

 日本生まれの朴さんは「神の国だから必ず戦争に勝つ」と信じていたそうです。市民生活や思想がこれほど戦争の影響(えいきょう)を受け、国のために物事が進む世の中は想像もできません。しかも最後は、朝鮮半島から来た人たちも原爆で大勢亡くなりました。将来を担う者がしっかりと見つめなければならないと感じました。(高1山田千秋)

思いやりが平和つくる

 「平和とは人を思いやること」と朴さんは言います。戦後、朝鮮半島へ帰ることができなかった朴さん一家は、多くの人たちに助けられたそうです。どんな人でも差別せず、優しさを持ち合うことが大切だと思いました。たくさんの失われた命と悲しみ、そして支え合いの上に築かれた平和を守っていきたいです。(高2森本芽依)

(2015年8月31日朝刊掲載)

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