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社説・コラム

『論』 軍縮会議と慰霊碑 被爆地から新たな行動を

■論説委員・東海右佐衛門直柄

 世界の軍縮専門家ら約80人が討議する国連軍縮会議に先週、出席した。参加者として国際会議に関わる貴重な機会であり、被爆地広島で核兵器廃絶への道筋を討議する意義をあらためて実感した。

 初日には、原爆慰霊碑に献花する輪に加わった。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。松井一実広島市長による碑文の説明に、参加者が聞き入る姿で思い出したことがある。

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 6年前のことだ。イスラエルやパレスチナなど中東の若手外交官4人が研修のために広島を訪れた折、平和記念公園に案内した。慰霊碑前で、この碑文について私が説明した時、彼らの顔からすっと表情が消えた。

 一人が言った。「過ちは繰り返すもの、ではないでしょうか。戦争で人々が傷つき反省してもすぐ忘れてしまう。それが人間ではないですか」。そんな内容だった。

 中東では19世紀後半以降、列強の思惑も交錯して戦争が繰り返され、今もテロが続いている。いったん停戦に合意しても、また憎悪の連鎖が戻ってしまう。「繰り返さぬ」と誓うだけで済むのか。そんな意識から出た言葉だったのかもしれない。

 「過ちは繰り返すもの」。私は衝撃を受け、すぐに言葉が出なかった。「繰り返しませぬ」というのは、被爆者の切実な声である。核兵器が使われれば人類全体が危機に陥ってしまう。だから絶対に使わせてはならない。被爆地としては自明の誓いであり、世界に通じるメッセージであろう。

 ただ「訴え」だけでは物足りない、と感じる声が世界の一部にあるのは事実だ。軍縮会議の休憩時間、碑文の意味をどう思うか参加者に聞いてみた。「被爆者の声が凝縮されている」との声が多かった一方「どうすれば繰り返さないか、という議論と行動につなげなければ、美しい言葉だけの詩文になる」との声も聞いた。

 いま被爆地に求められているのは、これまでの訴えを、より具体的な行動へとつなぎ、国際社会を巻き込む力なのかもしれない。

 これまでは病をおして世界へ出掛け、筆舌に尽くし難い体験を語る被爆者が多くいた。しかし平均年齢が80歳を超えた被爆者に、従来のような活動は望めない。次代に向けどう動くのか。具体的な計画を再構築することが被爆地に突き付けられている。

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 中でも考えるべきは「どこへ向けて働き掛けるか」ではないか。

 被爆地はこれまで、核保有国に向けた運動を主軸に置いてきたといえよう。しかし核保有国を廃絶交渉のテーブルに着かせるのは難しい。5年に1度の核拡散防止条約(NPT)再検討会議も、全会一致が原則である。世界の大多数が廃絶を求めても、保有国が1カ国でも反対すれば交渉は前に進まない。実際、今春の会議は決裂した。このままでは運動が袋小路に陥りはしないか。

 核廃絶には保有国の理解が要るという考え方は、ある意味で正しい。ただ核保有国は廃絶どころか軍縮すら後ろ向きで、核兵器の高性能化を着々と進めている。被爆地と連携して廃絶を唱えるはずの日本政府も米国の「核の傘」に安全保障を依存したままだ。

 広島・長崎も戦略の多角化を検討したい。この3年、国際社会で大きなうねりとなっているのは、核兵器の非人道性に着目した禁止条約の議論である。「持てる国」ではなく非政府組織(NGO)主導で禁止条約への流れをつくった地雷やクラスター弾のような手法なら、保有国が参加しなくとも核兵器の製造や使用などを厳しく規制できるはずだ。

 核兵器禁止条約へ向けた動きを主導しているノルウェーやオーストリアなど有志国などとの連携を強める新たなキャンペーンが有効ではなかろうか。

 「被爆者として、最後の一呼吸まで廃絶を諦めない」。軍縮会議での日本被団協の坪井直代表委員(90)の言葉は重い。被爆者の存命中に廃絶を成しとげてほしいという強い訴えが、胸に響いた。悲願達成に必要なのは何か。被爆地からの新たな行動である。

(2015年9月3日朝刊掲載)

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