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あす広島被爆70年 夢枕の少年「僕を描いて」

語り部、無念の声を絵本に

 広島に原爆が投下されて、六日で七十年を迎える。被爆者の平均年齢は八十歳を超え、あの夏を伝えられる被爆者が減っていく中、姉を捜すために爆心地に入って「入市被爆」した河野キヨ美さん(84)=広島市中区=は、自身の体験を絵本にし、証言を続けている。(社会部・浅井俊典)

 修学旅行などで広島市の平和記念公園内の施設を訪れた子どもたちに、河野さんは七十一歳のときに見た夢の話をする。カーキ色の制服を着た中学生が現れ、大きな声で叫んでいた。「早く僕らを描いてください。そして思いを代弁してください」

 一九四五(昭和二十)年八月六日に原爆が落とされた翌日、十四歳だった河野さんは広島市内にいた姉を捜し、焦土と化した市街地を母とさまよった。

 動物を焼いたような臭いが目と鼻を刺す。皮膚をぼろ布のように垂らした人がそろりそろりと歩いていた。道路に横たわる遺体は赤黒く膨らみ、鬼のよう。眼球がどろりと流れ出し、裂けた腹から出た内臓は、卵焼きみたいな色だった。焼けた路面電車には、つり革を持つ腕だけが黒焦げでぶら下がっていた。

 やっとの思いで看護師の姉が勤める広島赤十字病院に着くと、廊下まで血まみれのけが人でいっぱいだった。「痛いよう、痛いよう」「苦しい、もう殺してつかあさい」。子どもの泣き声や老人のうめき声がコンクリートの壁に反射し、うおーん、うおーんと響く。

 姉はけがをしたが命に別条はなく、他の場所に移されたという。ほっとして病院の外に出ると、緑が茂っていたはずのソテツの花壇に、少年の遺体が放射状に積まれていた。駆け寄って名札を見ると、自分と同じくらいの中学生だった。

 動員作業中に原爆にやられたのか。やけどもなく、あどけない顔で眠っているように見えた。その光景は、ずっと頭から離れなかった。

 夢で見たのはあの中学生に違いない。その日のうちに絵を描き始めた。全くの素人だったが、半年かけて絵本にまとめた。

 原爆で亡くなった子たちにはたくさんの望みがあったはず。「もっと勉強がしたい」「お母さんに会いたい」。いつも彼らの声が聞こえるように感じる。

 七十年たった今も核兵器はなくならず、不条理だと思うことも多い。「でも絶望はしたくない。一人一人の小さな願いがやがて大きな力となることを信じて、時間の許す限り証言を続けたいんです」

 夏の日差しが照り付ける広島で、静かに語った。

広島への原爆投下
 太平洋戦争末期の1945年8月6日午前8時15分、米国が人類史上初めて、実戦で原爆を投下した。広島市の上空約600メートルで爆発。爆心地の2キロ以内の建物はほぼすべて破壊され、同年末までに、推計で約14万人が犠牲になった。広島が投下先に選ばれた理由は、都市の大きさや山に囲まれた地形が、原爆の威力を測るのに適していたからなどとされる。

(中日新聞社2015年8月5日朝刊掲載)

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