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広島被爆資料は語る 黒焦げの弁当箱 娘はどれほど熱かったろう

 強烈な光と熱が大切な人を、物を、破壊し尽くしたあの日の記憶を伝える品が、広島市の原爆資料館に眠っている。「最愛の家族が生きた証しを伝えたい」と寄せられた遺品などの資料は約二万点。一九四五(昭和二十)年八月六日の朝、何があったのか。どのように最期のときを迎えたのか。もの言わぬ被爆資料は、亡き人や遺族の思いを伝える。広島は六日、七十回目の慰霊の日を迎える。(社会部・浅井俊典)

 アルミの弁当箱は中身が入ったまま、黒焦げになっていた。広島市立第一高等女学校一年の渡辺 玲子さん=当時(12)=のために、母親のタカさんが持たせたものだった。

 米粒ほどに刻んだ大根と一緒に炊いた白米、それにエンドウ豆の煮物。学徒動員され炎天下での作業にあたる玲子さんを気遣い、「母は貴重だった白いご飯を多めに入れてあげたようです」。広島市中区に住む妹の直子さん(76)は話す。

 八月六日の朝、一緒に通学する友だちが体調を崩して休むと伝えられた。一家は当時、疎開先の山村に住み、駅までは歩いて五十分近くかかる。「一人だと心細いし、私も休みたいな」。そう話す玲子さんをタカさんはたしなめ、玄関先で見送った。玲子さんは何度も後ろを振り返り、駅へ駆けていったという。

 空襲での延焼防止のために建物を取り壊す「建物疎開」の作業中に、玲子さんは被爆。爆心地から五百五十メートルの場所で、作業をしていた一、二年生五百四十一人全員が死亡した。

 翌日、姉の桂子さん(85)が作業場所の近くで弁当箱を見つけた。箱の底に、縫い針で刻んだ「渡辺」の文字があり、玲子さんのものと確認した。家族全員で何日も捜したが、遺体は見つからなかった。

 「あの朝、『行ってきます。私が帰るころは、また家の前で見よってね(出迎えてね)』って走って出たきりなんです」。タカさんは八四年七月に地元新聞に掲載された記事でそう語っている。

 直子さんによると、タカさんは玲子さんを作業に行かせたことを責め続けた。戦時中は食べたこともないケーキや果物が食卓に並ぶと、すぐには手をつけなかった。原爆の日が近づくと「ぎらぎらした夏はきらい」とふさいだ。

 「熱線に焼かれて姉はどれほど熱かったろう、苦しかったろう。口には出さなかったけれど、母はずっと考えていたのでしょう」と直子さんは話す。

 タカさんと父親の茂さんは七〇年、「少しでも多くの人に見ていただければ」と弁当箱を原爆資料館に寄贈した。タカさんは八八年、茂さんは九一年に亡くなった。姉の桂子さんは現在、施設に入り、被爆体験を話すのは難しい。あれから七十年が過ぎ、弁当箱が玲子さんのことを語ってくれていると直子さんは感じている。

 弁当箱は十六日まで、同資料館で特別展示されている。

被爆資料
 広島市の原爆資料館に約2万点が寄贈され、展示物以外は室温20~22度、湿度50~55%の収蔵庫で保管されている。半数近くは大量に寄贈された原爆瓦。被爆した三輪車や原爆投下時刻の午前8時15分を指した懐中時計、服、遺髪などの遺品がある。玲子さんの弁当箱はレプリカが作られており、米ワシントンで開催中の原爆展で展示されている。

(中日新聞社2015年8月6日朝刊掲載)

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