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この日母を奪った原爆 名古屋の女性 昨年やっと「最後」分かる

 原爆投下から七十年。広島は六日、慰霊の日を迎えた。原爆は広島で十四万もの人命を奪い、生き残った者に今なお放射能被ばくの苦しみを与え続ける。最愛の母を失った女性は高齢を理由に「これが最後」と決めた平和記念式典に臨み、子どもたちは核兵器の廃絶を世界に訴えた。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。原爆死没者慰霊碑の言葉をこの日、多くの人々が心に刻んだ。

 あの夏、何度母の名を呼んだことだろう。

 愛知県の遺族代表として六日の平和記念式典に出席した名古屋市東区の小西正子(せいこ)さん(85)は、四十九歳で原爆の犠牲になった母ハルノさんの遺影を膝に乗せ、祈りをささげた。

 小西さんは当時、女学校四年の十五歳。父を結核で亡くし、母と小学六年の妹の三人で暮らしていた。自宅は原爆ドームから南に数百メートル下った元安川沿いにあった。

 八月六日の朝は、家から電車で一時間ほどかかる学徒動員先の塗料工場にいた。朝礼中に空が真っ暗になり、すぐに「広島で大変なことがあったらしい」と大騒ぎになった。

 線路伝いに歩いて広島に戻る途中、衣服が焼けただれ、「みずー、みずー」と訴える人たちがふらふらと逃げてきた。街中に入ると、全身にガラスが突き刺さったり、ひどいやけどを負ったりした人でごった返し、道のそこかしこに遺体が転がっていた。

 自宅は爆風で押しつぶされ、跡形もなかった。収容所や避難所を何カ月も尋ね歩いたが、手掛かりは何もない。「お母さん、会いたいよ、顔が見たいよ」。家を掘り返してもらったが、遺体も、遺品も見つからなかった。

 妹は被爆直後に友達の家に身を寄せていて無事だった。戦後、姉妹で名古屋の親戚に引き取られた。

 母の最期が分かったのは昨年の冬。八十歳を過ぎて自分の命が尽きる前にもう一度母を捜そうと、広島市に問い合わせた。すると、母の名前が罹災者(りさいしゃ)名簿に残っていたことが分かった。

 広島市から郵送されてきた当時の検視調書のコピーには、「六日午前十時、広島市の京橋配給所」で死亡確認とあった。母は崩れた家からはい出し、町内の入り口まで出てきていたのではないか。きちんと荼毘(だび)に付してもらっていたことも分かった。「お母さんはきっと苦しまずにすんだんだよね。良かったね」。検視調書のコピーを胸の前で優しく抱きしめると、涙が止まらなくなった。

 母の命を奪った原爆は絶対に許すことができない。式典後、平和記念公園にある慰霊碑の前に立ち、あらためて思う。「人間の手で制御できない原子力を扱うことは神様を冒とくすること。この世からあらゆる核をなくしてほしい」(浅井俊典)

(中日新聞2015年8月6日夕刊掲載)

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