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連載・特集

民の70年 第2部 歩んだ道 <1> 街の復興

復員 闇市起点に製麺所 カープうどんで繁盛

 太平洋戦争で焼け野原になった街はビルがそびえ、高度経済成長は農村にも豊かさをもたらした。一方で、社会を揺るがす出来事も起きた。時代を築いた中国地方の人々の証言から、戦後歩んだ70年の道のりを振り返る。

 原爆で廃虚となった広島の市民は、一から生活や街の再建を始めた。広島市東区の平田正己さん(95)も闇市に出入りし、製麺所を広島駅前の市場で開いた。

 満州(現中国東北部)から引き揚げたのは1946年8月。一見して復員兵と分かるのに、地元の河内駅(現東広島市)に降り立っても誰も知らんぷり。「万歳万歳」と送り出された時を思い返し、敗戦をかみしめた。生きて帰れただけで最高だったが、田舎に職はない。広島へ出た。自転車で郊外の農家を回り、野菜や果物などを仕入れては広島駅前の闇市で売りさばいた。

岡山へ買い付け

 食糧難の中、正規の販路によらない「闇米」も農村部から持ち込まれた。

 汽車賃は安かったから、相場の情報を基に、時には岡山県にまで買い付けに出掛けた。警察もある程度、大目に見ていた。闇米が出回らないと、市民が生きていけないと分かっていたから。そんな折、消息不明だったおやじが満州から遅れて引き揚げてきた。48年ごろ、広島駅前のバラックでおやじとうどんの製麺を始めた。

 占領下で小麦粉は手に入りやすく、うどんは市民の空腹を満たした。

 ご飯だとおかずが要るが、うどんなら1杯でおなかが膨れる。広島駅構内でもうどんを売るように業者に勧めたところ、大当たりした。駅うどんだから、年中休みはない。朝2時から麺を作る仕事はきつかった。眠い、しんどいと言うとったら生きていけない。あの頃はよう働いた。

1日6000食売れる

 市民球団の広島カープ(現広島東洋カープ)が50年に創設された。

 49年に西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)のグラウンドであった阪神―東急戦を遠巻きに見たが、当時は野球どころか生活で精いっぱい。カープを応援する「たる募金」に協力したが、観戦に行きたいと考える余裕はなかった。

 バラックが連なった広島駅前だったが、終戦から10年もしないうちに百貨店やパチンコ店が立ち並ぶようになった。私も昭和30年代に入ると、夫婦で年1回、近場へ旅行に行けるようになった。

 広島市民球場ができると、同業の先輩たちが「カープうどん」を売り始め、私も後から加わった。カープが初優勝した年はすごかった。1日6千食近くが売れ、球場や街全体に波打つような熱気があった。

 70歳の時、店を娘夫婦に引き継いだ。闇市から発展した広島駅前の愛友市場は解体され、今は再開発ビルの工事が進む。

 都市の駅前といっても、終戦直後の混乱期のように「作れば作るだけ売れる」という時代でなくなった。じゃが、次の世代がうまく街を盛り上げてくれるじゃろう。期待しとるよ。(馬場洋太)

<広島の復興の歩み>

1949年 8月 広島平和記念都市建設法公布
  50年 1月 広島カープ球団結成披露式
  57年 7月 広島市民球場完成
  58年 4月 広島復興大博覧会開幕
  65年12月 広島駅ビル開業
  75年 3月 山陽新幹線が全線開通
     10月 カープがセ・リーグ初優勝
  80年 4月 広島市が政令指定都市に
2009年 3月 マツダスタジアム完成

戦後復興と経済成長

 終戦直後、日本は激しいインフレに見舞われ、物資や食糧の不足で経済が混乱した。1950年に朝鮮戦争が始まると、軍需景気で製造業が飛躍的に発展した。56年の経済白書は「もはや戦後ではない」と記述した。

 広島県選出の池田勇人首相が60年に所得倍増計画を掲げたのに代表されるように、政治の主流は経済重視路線に。高度経済成長によって日本は68年、米国に次ぐ経済大国になった。経済成長は73年の第1次石油危機まで続いた。

 しかし、91年にバブル経済が崩壊した後は、長期の不況に突入した。少子高齢化が進む中、デフレが続いた。

(2015年9月8日朝刊掲載)

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