×

連載・特集

民の70年 第2部 歩んだ道 <2> 農村開拓

食糧難 国が入植奨励 「豊かになる」原野と格闘

 満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍として満州(現中国東北部)に渡った広島市出身の佐々木勇さん(87)は戦後、広島県大朝町(現北広島町)で田畑を切り開いた。

 原爆で広島市西蟹屋町(現南区)の自宅はつぶれ、大やけどを負った父は一時、寝たきりになった。「広島は70年間草木も生えぬ」といううわさにも惑わされ、一家で母方の実家のある川迫村(現北広島町)へ移った。だが、家族で食べていくのは難しく、1947年に大朝町の高原開拓地へ入植した。私も6年後の53年に帰国し、家族と合流した。

雪かき分け開田

 食糧難の下、国は農家の次男、三男や戦災者、引き揚げ者対策として、原野への入植を奨励した。開拓集落は広島県内で約200カ所に上った。

 父は開墾できず、炭焼きで生計を立てた。米は十分に買えず、麦がゆ、ぬか団子で飢えをしのいだらしい。私は父母や弟、妹たちを楽にさせるため、一枚でも多く田んぼを造ろうと心に決めた。

 石だらけの原野にくわを入れ、切り株を掘って転がす。一輪車で土を運んで平らにならす。1年に2反(0・2ヘクタール)がせいぜい。田植えも初体験だった。初めて収穫した米の味は忘れられない。「次の春にはもう1枚」と、冬も雪をかき分け、開田を急いだ。米を売り渋った人を見返してやりたい気持ちもあった。

 都市が復興するにつれ、開拓地を離れる人も相次いだ。

 高原開拓地には当初、十数戸が入植したが農業未経験者ばかりで、4戸まで減っていた。昭和38年の「38豪雪」では屋根まで積もったが、既に田んぼが1ヘクタールあり、離れる気はなかった。「苦労が水の泡になる」と農村の基盤整備を県に何度も要望し、65年にやっと電気がついた。家族全員で肩を抱き合って喜んだ。努力が報われた。「食うためでなく、豊かになるために働く」と実感できたのはその頃かのう。

減反うらめしく

 国民の暮らしが豊かになると一転して米が余り、農業は揺らいだ。

 重機を導入して開墾が進み、75年ごろ田畑は2・2ヘクタールまで増えた。それだけに、減反がうらめしかった。開拓地にまで強いるのかと。減反がなければ、まだまだ田んぼを増やせたんじゃが。最近は米価が安くなる一方だ。普通に出荷するより、知り合いに売って「おいしいね」と言ってもらえるのが一番いい。

 農山村で過疎化が進む一方で、近年は「田園回帰」の動きも出てきた。

 孫は広島市内に就職したが、3年前、北広島町に家を建てた。さらに地元に転職し、よう訪ねてくれる。開拓者精神を受け継いで将来を計画し、たくましく生きてくれたらいい。(馬場洋太)

<中国地方の農村関連の出来事>

1946年 1月 広島県が開拓増産本部設置
  47年11月 鳥取県大山町の香取開拓団を昭和天皇が視察
  63年 1月 38豪雪。中国山地で集落孤立が相次ぎ、一家で都市に移り
         住む「挙家離村」の契機に
  69年 7月 島根県匹見町(現益田市)の大谷武嘉町長が国会で過疎対策
         の必要性を主張。70年の過疎法制定につながる
  83年 3月 中国道全通
  91年12月 浜田道全通
2015年 3月 中国やまなみ街道全通

農村と農政
 戦後の農地改革で多くの小作人が自作農になった。国は食糧難対策のほか、戦地などからの引き揚げ者の就業に向けて開拓や干拓を推し進めた。経済成長を遂げる中、農政の転換点は1961年施行の農業基本法。工業など他産業との収入格差の是正を掲げ、稲作から施設園芸、畜産などへの転換を図った。食生活の変化で米が余ると、70年に生産を調整する減反政策がスタート。その後も食管制度廃止による米価下落、農畜産物の輸入自由化、後継者不足など、農村をめぐる環境は厳しさを増している。

(2015年9月9日朝刊掲載)

年別アーカイブ