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連載・特集

民の70年 第2部 歩んだ道 <5> 公共事業

揺れた「昭和の国引き」 中海干拓 曲折経て中止

 「昭和の国引き」と呼ばれた中海干拓。食料増産を目的に国が島根、鳥取両県で計画したものの、曲折を経て未完に終わった大型公共事業だ。「本庄工区」が完成すれば、広大な農地が広がるはずだった中海のほとりに暮らす津森忻爾(きんじ)さん(84)=松江市。青年時代に「米国のような農業ができる」と夢を描いていた。

 おやじもじいさんも苦労をしとったから「これまでの農地は宅地で売って、その金で大型機械を買って干拓地で農業をする」と考えとった。若い時だけんね。夢があった。「干拓地に入植したい」と石見(島根県西部)の方から家族連れで引っ越してきた人もおった。

漁師は勤め人に

 やがて、減反政策が始まる。米余りの時代だ。

 島根県庁に行って尋ねたことがある。「田んぼを減らせというが、干拓で造った農地はどうなるか」と。「農地以外に転用することもある。計画はある」という返事だった。

 補償金をもらった漁師は陸に上がって勤め人に変わった。それなのに、国も県も前に進めもせんし、中止もせん。松江や米子の街の人が「環境破壊だ」と訴えだす。板挟みになったようなもんですわ。

 中海と宍道湖の漁師は、干拓とセットの淡水化に猛反対した。やがて事業の延期が決まる。

 農地が足らんからやらんといけんと国が進めておいて、反対する漁師には補償金を積んで承諾させて。やるかやらんか、はっきり決めずに放り投げて。「廃棄物の埋め立て地にすればいい」と言った松江市長もいた。県や市でらちがあかんなら、農水省へ行って「干拓なんか早いことやめてごせ。元の中海に戻してごせ」って言おうと、準備までしとった。

水動かず魚減る

 1990年代に入っても、手詰まり状態が続いた。結末は政治主導だった。公共事業見直しの機運に押された自民党など与党の勧告に国は従った。

 1千億円以上の大金を突っ込んだから、事業をやめると責任問題になる。だから長い間、国は中止を決められんかった。堤防を造って水が動かんようになって、魚は減った。

 賛成、反対に地域が割れて、いがみあったらいけんと思っていた。子や孫の代まで禍根が残る。だから、中止が決まる前から、事業をやめたらどうなるかも町内で話し合った。干拓は、本当にわしらが望んだ夢だったんだろうか。今考えたら、やめて正解だった気がするよ。(石川昌義)=第2部おわり

<中海干拓の歩み>

1963年4月 国が中海干拓事業に着手
  82年6月 中海、宍道湖の両漁協が淡水化延期を島根県知事に陳情
  88年7月 米子市議会が市民の直接請求を受け、淡水化の賛否を問う住民
        投票条例案を可決▽国が淡水化延期を決定。本庄工区の干拓工
        事も中断へ
  96年3月 島根県知事が干拓工事再開を国に要請
2000年8月 与党が干拓中止を政府に勧告
     9月 干拓中止を国が決定

国による大型公共事業
 高速道路やダム、干拓など多岐にわたる。地域経済の刺激策として期待されてきた一方、環境意識が高まった1980年代以降、公共事業による環境悪化を懸念する声が強まった。中海干拓のほか、諫早湾干拓(長崎県)や長良川河口堰(ぜき)=三重県=でも反対運動が激化。「無駄が多い」との批判も根強い。

 財政が逼迫(ひっぱく)し、中海干拓を中止に追い込んだ与党勧告(2000年)や、「コンクリートから人へ」を掲げた民主党への政権交代(09年)のように、公共事業の見直しが政治問題化することも増えた。

(2015年9月15日朝刊掲載)

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