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社説・コラム

福島菊次郎さんを悼む 那須圭子 「無知は罪」反戦の羅針盤

 「みんなさ、戦争なんて始まらないと思ってるだろ。でも始まるよ」  安全保障関連法が可決される少し前、柳井市の病院のベッドの上でそう語った報道写真家の福島菊次郎さんが亡くなった。私は大切な羅針盤を失った。

 山口県上関町に中国電力が計画する上関原発の建設に反対する一人の主婦であった私が、その運動の中心となって闘う祝島の人々を撮り続けてきた福島さんと出会ったのは26年前。当時住んでいた徳山(現周南市)で、福島さんの写真展を開いた時のことだ。

 「この問題はまだ10年、20年と記録していかなければね。僕はもう年だ。あなた、やらない?」

 福島さんの問い掛けに、よく考えもせず、とっさに「はい」と返事した私。その日以来、素人同然のまま撮り続け、壁にぶち当たるたびに福島さんの言葉に導かれてきた。

 初めて原発予定地に立った時、「自分が何も知らないままここに生まれ育っていたら、原発を受け入れる道を選んだかもしれない」と私が言うと、福島さんは言った。

 「あのね、那須さん。無知であることは罪なの。僕がそうだったから、よく分かる」

 私は、その言葉によって迷いが吹っ切れて、祝島を撮り続けた。

 その後、今度は近くなりすぎた祝島と自分の関係に悩む私に福島さんが投げ掛けたのは、「孤立することを恐れないで。集団の中にいては、大切なものが見えなくなる」という言葉だった。

 最期まで反権力の立場で日本の戦後を撮り続けた福島さんの原動力は、意外にも「私怨(しえん)」だったという。

 1988年、福島さんが胃がんの手術で入院した時期と、昭和の終わりの日々が重なった。病院のベッドでテレビをつけると、来る日も来る日も天皇の病状報道が続いた。

 素朴な軍国少年だった福島さんは、二等兵として戦争の不条理に放り込まれた。国に裏切られた思いを胸にやっとのことで復員すると、「天皇が責任を問われないままそこにいた」。

 福島さんは、それを忘れるわけにはいかなかった。退院するとすぐ「戦争責任展」を全国で開き、広島の被爆者家庭を撮った初期の代表作などを、あらためて世にぶつけた。

 さらに、若い人たちからの「もっと見たい」という声に応えようと、学生運動や公害などのテーマも網羅した続編「日本の戦後」をまとめ、無償で貸し出した。その巡回展は今も続いている。

 「僕が変わればこの国も変わる、そう思ってるの。一人一人が変わらなければ、いつまでもこの国は変わらない」

 今、この国が重要な分岐点に立っている時、私たちはそれぞれが一人になってこれから進むべき道を見定めているだろうか。私はもう一度、福島さんの言葉をかみしめている。(フォトジャーナリスト=光市)

    ◇

 福島菊次郎さんは24日死去、94歳。

(2015年9月30日朝刊掲載)

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