×

連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第4部 小島清文 <2> 父の影響

男女同権 理想を共有 女性の社会進出に道

 小島清文は1919年、日本統治下にあった台湾の台北で生まれた。父の清友(1892~1958年)が「台湾新聞」の記者として赴任していた。清友はその後、旧満州(中国東北部)の「満洲日日新聞」でも活躍している。

 戦後間もない浜田市で、清文が若くして石見タイムズの編集責任者を担えたのは、社長である清友が豊富な経験で支えたことが大きい。戦後民主主義の息吹を伝える論調は、父子の合作ともいえる。

 清友もまた、若き日から言論人の気概を持っていた。三次市に生まれて苦学した後、益田市美都町で文芸誌「心の響(ひびき)」を出す。地元の青年の投稿作品のほか、大杉栄、山川菊栄、与謝野鉄幹、正宗白鳥らの寄稿を得ていて、驚かされる。

 刊行は大正初期。地方の20代の若者の懇願に、当時の社会運動家や文学者は呼応するセンスを持っていたということだろうか。戦後民主主義に先立つ、大正デモクラシーの息吹を伝える。

 清友は、女性の地位向上も盛んに訴えた。26年の著書「婦人に栄光あれ」は、「世に出でざる殉教者に等しい生活」と当時の日本女性の境遇を嘆き、まず女性自身が誇りに目覚め、実力を付けよ、と説く。

 清文もその精神を受け継いだようだ。「女性がはっきりものを言う気風が、小島家にも、石見タイムズの社内にもあった」。18歳で清文の養女になった山口富子(ひさこ)(68)=横浜市=は振り返る。養女になる前から小島家に出入りしており、「男が大いばりの私の実家と、こうも違うものかと驚いた」と言う。

 男女同権は、戦後民主主義の柱となる主張だ。清文は、石見タイムズの社内で、紙面で、それを推し進めていく。

 47年7月1日付の同紙創刊号には、田代春子記者の「入社の言葉」が載っている。「新憲法によって男女同権が認められ参政権が与えられ…」で始まる一文は、政治や経済、教育に女性の声を反映させる必要に触れ、新聞を通じてその向上に寄与すると誓う。

 清文が生前、郷土誌に寄せた回想録「『石見タイムズ』物語」によると、草創期に女性を積極登用したのは自分の独断だが、「父は黙って事後承認してくれた」という。50年代に記者職で勤め、今は長野県松本市に暮らす洲脇美子(95)は「清友社長は何事にも厳格で、差別をしないことにもそうだった」と言う。

 同じ回想録で清文は、「女性陣に比し男性記者は文章力に欠ける者が多く、原稿に手を入れなければ使えなかった」とぼやいてもいる。

 年頭の紙面を「女性はかく考える」(49年)「女性は何を望む」(51年)といった座談会やコメント集が占めたのをはじめ、女性重視の編集方針は際立つ。地域に暮らす女性の率直な声から、「男社会」の変革を促した。

 理想を掲げて出発した新聞発行は、経営的には厳しかった。清友が、戦前に集めた書画骨董(こっとう)を売ってしのぐこともあったという。清文の発案で47年9月に開いた洋裁学校は、小島家にとって新聞と両輪の事業となり、財政を下支えした。

 洋裁は当時、「手に職をつける」自立の手段として女性が切実に学びたがっていた。「ドレスメーカー山陰女学院」と銘打ち、紙上で生徒募集をかけると、予想の10倍の250人もの応募が殺到したという。

 「ドレメ(学校の略称)のファッションショーは地域の一大イベント。ドレメのおかげで街の風景があか抜けた」。卒業後、浜田市で洋裁店を開いた岡野政子(80)は振り返る。

 清友から清文へ引き継がれた精神は、戦後の石見地方で、女性の社会進出に具体的な成果ももたらしていた。=敬称略(道面雅量)

(2015年10月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ