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社説・コラム

『私の学び』 広島原爆資料館ヒロシマ・ピース・ボランティア 原田健一さん

仲間、知識持ち寄り共有

 原爆資料館(広島市中区)で、世界中からの来館者に英語で展示案内をしている。ここで見聞きしたことを、一人でも多くの人が帰国後に広めてほしい。だから、寸暇を惜しんで「展示を解説しましょうか」と館内で声を掛ける。

 足早に巡ろうとしていた人が、被害を再現したパノラマ模型や被爆資料の前で立ち止まり説明に耳を傾ける。「被害について知っていたつもりだったが…」と言葉を失う。冷静に事実を伝えることに徹するよう心掛けている。来館者が思い思いに平和を考えてほしい、と願いながら。

 以前から原爆被害への関心を持っていたのではない。出身は兵庫県。大学卒業後に就職し、最初に配属されたのが広島だった。米国にも駐在した。それでも「空襲被害と原爆被害の違いは何だろう」と考えた程度だった。

 転機は、一念発起してコンサルタントとして独立した1995年。約20年間住んだ広島に縁を感じ、永住を決めた。ピース・ボランティアの募集を知り、2000年に「2期生」として加わった。会社勤めより自由時間がある分、語学力を生かして市民活動を―。そんな動機だった。

 研修期間中、平和教育を受けた広島の人より知識が圧倒的に足りないと痛感した。被爆体験記や核問題を扱った本を読みあさった。大量破壊兵器が人間にもたらす被害の本質を学ぶほど、自分は無知だったと気付いた。ヒロシマを知ろうと、のめり込んだ。

 仲間からも多くを学んだ。共に月曜に活動する予定だった研修生は、被爆者、若者、母親たち多彩な面々の8人。それぞれが得た知識を持ち寄り、語り明かした。備忘録としてA4用紙にまとめ、情報共有するようになった。

 中断を挟み、毎週月曜配信の「マンデーメモ」として続けている。紙齢は9月末で792号。購読者は200人を超す。ガイドを通して感じた素朴な疑問、来館者の質問やその答えを寄稿してもらう。「原爆にパラシュートは付いていたのか」「長崎の原爆投下機の名『ボックスカー』の由来は」。双方向のやりとりで、共通の知は厚みを増す。

 被爆資料を通して来館者が事実を知る橋渡し、という役割は将来も変わらないだろう。「ヒロシマ」を持ち帰ってもらうための、ささやかな努力を続けたい。(聞き手は金崎由美)

はらだ・けんいち
 兵庫県朝来市(旧生野町)出身。1967年、大阪大工学部を卒業し日本IBMに入社。計3回の広島勤務、88~93年の米国駐在を経て95年に独立。2000年4月から原爆資料館(広島市中区)で活動。広島市東区在住。

(2015年10月5日朝刊掲載)

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