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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第4部 小島清文 <4> 米国人の友

立場超えて終戦工作 民主主義 誓う「同志」

 1945年4月、フィリピン・ルソン島で米軍に投降した小島清文は、翌月にハワイ・オアフ島の捕虜収容所へ送られた。輸送機で同行した米軍少尉が、中尉になっていた小島との会話で「イエス・サー、ルテナン(中尉)」と敬語で応じ、小島は衝撃を受ける。

 「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」。太平洋戦争当時、そんな戦陣訓に縛られていた日本軍人は、捕虜を軽蔑する傾向が強かったとされる。その捕虜となった自分が、敵国の軍人にきちんと人間扱いされた。ルソンの密林で祖国に見捨てられたような消耗戦を経た小島の心に、痛いほど染みたという。

 ある時、捕虜の日本兵が、監視の米兵に気に入られようと「アメリカ、グッド。ジャーマニー(ドイツ)、ノーグッド」と話しかけた。ところが、その米兵は母親がドイツ人で「悪いのはナチスやヒトラーだ」と言い返した。

 やりとりを聞いていた小島は、国家と国民を同一視しない考えを心に刻む。収容所でのさまざまな体験は、小島が投降時につかんだ国家観を深めさせた。

 小島はこの地で、終生の友情を交わす米国人と出会う。北海道小樽市の宣教師の家に生まれ、日米開戦後、祖国に従軍していたオーテス・ケーリ(1921~2006年)。日本語に堪能な情報将校(中尉)として捕虜に応対していた。

 ケーリは、キリスト者として反戦を説いた父譲りの平和主義者でもあった。小樽で小学3年の時に書いた、「せんそうのはるい(悪い)事」と題する作文が遺族の元に残っている。軍国教育を進める担任教諭に反論した文章。担任は心を打たれたのか、100点を付けている。

 小島と出会い、意気投合したケーリは、小島に選抜捕虜の一人として終戦工作チームに入らないかと提案する。日本本土にまくビラの作成などが任務。「この戦争は一刻も早く終わらせるべきだ」。既にそう確信していた小島も参加した。

 日本が降伏した日の晩、小島らの前に現れたケーリは「この飲み物は苦いかもしれないが、われわれの友情のために」と缶ビールを差し出したという。

 ケーリは戦後、日本に戻り、同志社大教授などを務める。浜田市で石見タイムズを創刊した小島に、支援を惜しまなかった。51年3月から同紙に「日本の若い者」という連載を寄稿。大学で出会う若者らが、いまだに軍隊式の「右へならえ」で「意見のない人々」でいるのを残念がり、民主主義の担い手たれ、と励ましている。連載は捕虜収容所での体験にも触れ、53年2月まで92回に及んだ。

 小島とケーリの足跡を調べている島根県立大教授の井上厚史(57)は「第2次世界大戦の惨禍から芽生えた理想主義が、戦勝国、敗戦国の立場を超えて2人に共有されていた」とみる。2人は戦後日本を同志として歩んだ。

 地方の民主化を掲げた石見タイムズの論調は、米国の初期の日本占領政策とも合致していた。小島の回想録「『石見タイムズ』物語」によると、49年2月、山陰の新聞事情の調査に連合国軍総司令部(GHQ)の担当官が訪れ、小島らを呼び出した。小島が編集方針を説明すると、担当官は握手を求め、新聞に適したざら紙を優先的に配給してくれたという。

 「石見タイムズが部数を伸ばせたのは紙質がよかったから」と、小島は冗談めかして語ることがあった。

 その後、米国は50~53年の朝鮮戦争を経て冷戦に深入りし、ベトナムなどで戦争を繰り返す。平和憲法の下に戦後を出発した日本も「逆コース」をたどり、日米安全保障体制を強めていった。この流れは冷戦終結を経て今に続き、改憲も視野に強まっている。

 井上は、小島もケーリも「日本国憲法を平和主義ゆえに信奉するのではなく、民主主義を徹底するツールとして評価していた」と指摘する。個人の権利を奪い尽くした戦争の反省から生まれ、国家にそれを繰り返させないよう、不断の政治参加を促す憲法。2人が抱いた理想はいまだ途上にある。=敬称略(道面雅量)

(2015年10月8日朝刊掲載)

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