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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第4部 小島清文 <3> 戦争体験

密林で苦闘の末投降 「国とは」自問重ねる

 地方の民主化を掲げて浜田市で創刊された石見タイムズに、異色の連載がある。戦後8年目の1953年5月から54年8月にかけ、63回にわたり掲載された戦争体験記「反逆者は誰か」。「高田清」の筆名でこれを書いたのは、主筆の小島清文だ。

 なぜ筆名だったのか。「伝説の地方紙『石見タイムズ』」を著した吉田豊明(79)は、「軍人称揚の気風が強かった浜田で、どんな反発があるか分からなかったからでは」とみる。浜田には旧陸軍の歩兵第21連隊が置かれ、勇猛兵士の銅像が建つなどしていた。

 なぜ反発を招きかねないか。それは、小島の戦争体験の終着が「投降」だからだ。41年に陸軍省が制定した軍人の心構え「戦陣訓」。その一節「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」を破る決断だった。

 しかし、この体験こそは小島の国家観、戦後の歩みを決定づけた。

 小島は太平洋戦争さなかの43年9月、慶応大経済学部を繰り上げ卒業となり、旧海軍兵科予備学生になる。小島が大学で研究したのは米国の自動車産業。日米の国力の差をよく知るだけに、気が重かったかもしれない。

 44年5月、少尉に任官して戦艦「大和」の暗号士となり、レイテ沖海戦に参加。呉港で艦を下りると、同年12月、フィリピン・ルソン島の最前線へ送られる。

 太平洋戦争末期のフィリピン戦の惨状は、大岡昇平の小説「野火」や「レイテ戦記」をはじめ、数多く描写されてきた。武器や食糧の補給を断たれ、飢えと熱病にさいなまれる密林の地獄。その中に25歳の小島もいた。

 時系列でつづられた「反逆者は誰か」の3~7回目に、小島にとって生涯の重荷となった体験が早々と出てくる。小島率いる小隊が米軍の迫撃砲にさらされ、傷病兵ばかりの15人になったところへ、中隊長から届いた撤収命令と伝言。「撤収に付いて行けない者は敵の捕虜になる恐れがある。小隊長の手で銃殺すべし」

 小島がためらっていると、最も重病の兵が状況を察し、銃で自決する。傍らのたばこの空き箱には「天皇陛下万歳。隊長の武運長久を祈ります」と書かれていた―。

 この惨劇さえ、ルソンの戦場ではありふれたことにすぎなかった。戦後に小島が詠んだ短歌で点描してみる。

<絶え間なき迫撃砲火の集中に武器なきわれら息ひそめをり>
<砲弾にうち砕かれし脚をかかへ母を呼びたつる少年兵のこゑ>
<特攻を命じたる司令があたふたと奥地に逃げたり食糧(かて)をかかへて>
<次々に倒れし兵を捨てて来ぬわれは悪鬼か涙も出ださず>
<この兵も歓呼の声に発ち来しや敗残の谷に食を乞ひゐる>
<雨蛙(あまがえる)なめくじ木の根草の根を食らひて生きぬルソンの戦闘(いくさ)に>
<この崖は分水嶺(れい)への関門か死臭鼻をつく兵の重なる>

 小島は、この絶望の密林で考えたことを、後年の講演で繰り返し語っている。

 「兵士たちは何のために、誰のために、こんな所で死ななければならないのか。この人たちを見殺しにしたのは誰なのか。お国のためというが、一人一人の命をこんなに粗末にする国とは一体何なのか」

 45年4月、小島はついに、生き残りの部下と同行兵に「投降」を切り出す。米軍陣地へ向かう最後まで従ったのは4人だったという。

 「反逆者は誰か」の最終回は、次の一文で締めくくられている。

 「呂(同行した台湾出身の軍属)の持つ白旗が朝風にハタ■■(ハタ)となり、兵隊達の落ちこんだ眼は明るく輝いていた」

 連載タイトルには、戦争指導者に対する小島のたぎる怒りがこもっている。だが文章は終始、淡々とした情景描写に尽きる。「反逆者は誰か」、戦後を生きる読者自身に考えてほしかったのかもしれない。=敬称略(道面雅量)

(2015年10月7日朝刊掲載)

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