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連載・特集

戦後70年 志の軌跡 第4部 小島清文 <5> 不戦の語り部

守るべき国家 問い続け 青空の記憶 共感呼ぶ

 小島清文は1957年秋、主筆として10年余り情熱を注いだ石見タイムズ社(浜田市)を37歳で去る。小島に「国会か県議会に出ろ」と政界を勧める父・清友と衝突したため。社長の清友は「出ないなら浜田にいる必要はない。上京しろ」と強硬だったという。

 同社の経営は苦しかった。自らが亡き後、息子に重荷を負わせまいとした清友の配慮だったろう、と小島は回想している。清友は翌年6月、65歳で病没した。石見タイムズは小島家の手を離れた後、73年6月まで発行された。

 上京した小島は、通産省(現経産省)の外郭団体や自動車販売の業界団体に勤めた。退職後、晩年の15年間に打ち込んだのが、戦争の語り部活動だ。

 87年、67歳になっていた小島は、自らの戦争体験を全国紙に投書した。自発的投降という特異な体験は反響を呼び、88年の「不戦兵士の会」結成につながる。戦場の生き証人として体験を語り、不戦を誓う仲間が集まったのだ。

 小島はこれをきっかけに、各地へ講演に招かれるようになる。市民集会、中高生の平和学習、大学のゼミ…。最晩年までに200回近い講演をこなした。旧満州(中国東北部)での従軍とシベリア抑留の体験者で、ともに活動した小熊謙二(89)=東京都八王子市=は「小島さんはイデオロギーに偏らず、体験を語り伝えることを第一にしていた」と振り返る。

 小島はさらに、恵泉女学園大教授だった内海愛子(73)らと「戦争体験を掘り起こす会」をつくる。戦後半世紀を過ぎた頃からの活動で、体験を収めた手記や録音を全国に募った。ボランティアを派遣しての聞き取りもした。

 「戦争体験は、たった10メートル離れた所にいても違う―。それが小島さんの口癖だった」と内海。公刊の戦史や陣中日誌からこぼれ落ちる体験、一人一人の兵士や市民が見た戦争を記録しておこうという小島の熱意がそこにあった。

 会で集めた約500件の手記や録音は今、内海が所長を務める大阪経法大アジア太平洋研究センター(東京都港区)に保管され、データ化が進められている。

 小島は92年、72歳で東京から浜田市に居を戻した。関東中心だった講演の依頼は、地元からも相次ぐようになる。98年には自ら「戦争と平和の伝承塾」という連続講座もスタートさせた。若き日に新聞紙上で民主主義を説いた地で再び、活発な対話の場をつくろうとした。

 「私は体験をありのまま話しますので、後は自分の頭で考えてください」。小島らしい前置きで始まる講演で、いつも問い掛けた。「守るべき国家とは何か」と。

 フィリピン・ルソン島の戦場で、国家は小島たちにとって死を強いるものでしかなかった。投降は、そんな国家の呪縛を断ち切る決断だった。小島は、解き放たれた個としての自分に「守るべき国家」の種をつかんだように思える。

 個々人が他人任せ、「お上」任せではない自分の考えや生き方を確保して、ともに営む国家のイメージ。石見タイムズでの奮闘をはじめ、小島が戦後に追い求めた民主主義とは、それにほかならないだろう。

 小島は2002年3月、82歳で亡くなった。その語りに触れてきた内海は「小島さんの問いは古びていない。安全保障法制に歯止めが見えない今の日本で、ますます重要になっている」と言う。

 晩年の小島と親しかった加藤米子(86)=浜田市=は、小島が詠んだ歌の一首を心に刻んでいる。短歌誌を主宰した亡夫も「巧拙を超えて響いてくる」と高く評価していたという。

<投降を決意せし瞬(とき)仰ぎ見るルソンの空は青く澄みたり>

 「小島さんは、この青空の記憶を生涯、手放さなかったんだと思う」と加藤。青空は小島だけのものではない。=敬称略(道面雅量)=第4部おわり

(2015年10月9日朝刊掲載)

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