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被爆2年後 復興への歩み 写真電子化 公開へ

 広島市中区の本川小で被爆から2年後の1947年に行われた秋の運動会である。東京から訪れた写真家大木実氏が撮影した。

 爆心地から西北に約410メートル、市内の公立小で初の鉄筋3階建て校舎は、原爆のすさまじいまでの威力に襲われて全焼。疎開の対象外だった1、2年生を中心に250人を超す児童が犠牲となった。

 授業は、部屋の間仕切りも窓枠もない校舎で1946年に再開され、被爆2年後も窓ガラスがないのが分かる。廃虚から復興へと歩みだす広島をプロカメラマンたちが撮った貴重な記録写真の電子保存化が、広島県立図書館で始まった。(西本雅実)


ヒロシマ1947 ネガに光 木村伊兵衛氏らの4588枚電子化

 原爆投下による1945年の壊滅から復興に歩む2年後の広島を収めた写真4588枚を、広島県立図書館(広島市中区)が電子保存化し、公開する。ネガフィルムの密着プリントを所蔵。広島市の原爆資料館の協力を得て撮影場所などの説明を付け、図書館ホームページに「貴重資料コレクション」を設け、来春までには全面的に公開する計画だ。

 撮影していたのは、日本写真家協会初代会長を務めた木村伊兵衛氏(うち446枚)▽旧文部省の原爆災害調査団に同行して2カ月後の広島も収めていた菊池俊吉氏(2174枚)▽戦前からグラフ雑誌を担った大木実氏(1968枚)。終戦直後に東京でプロカメラマン集団の「文化社」をつくっていた。

 3氏は、広島県観光協会が企画して瀬戸内海文庫(田中嗣三代表)が発行元となる英文写真集「LIVING HIROSHIMA」制作の要請を受け、1947年8月25日から10月17日にかけて被爆地広島を中心に県内全域で撮影に当たった。

 木村氏は宮島や三段峡、菊池氏は大久野島など瀬戸内の島しょ部、大木氏は県北の光景も収めていた。

 1949年に刊行された「LIVING」で一部が使われたが、版元が倒産したため大半が未公開となっていた。密着を含めた関係資料を田中代表が1979年に図書館へ寄贈していた。

 図書館は「一連の写真は広島の戦後を知る上で重要な資料」と電子保存化を決め、館としては初めてとなるネット上での写真閲覧に向け、撮影者の遺族らとも協議して作業を進めている。

 館創立60周年の11月3日、密着を貼った写真台帳の複製を館内で公開する。「貴重コレクション」開設時には、原爆を体験した原民喜ら所蔵する直筆原稿も登載する。

被爆史を研究する宇吹暁・元広島女学院大教授の話
 「LIVING HIROSHIMA」は占領下の時代、被爆の実態と復興を海外に伝えた先駆的な試み。撮影から六十余年をすぎ、多くの人が貴重な写真をみることができるのは図書館サービスとしても素晴らしいことだと思う。

(2011年10月30日朝刊掲載)

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