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連載・特集

第12回地方紙フォーラムin広島 戦争を伝える 平和を考える 

今を見つめる視点を

 中国新聞社など全国の地方紙12社でつくる日本地方紙ネットワークは「第12回地方紙フォーラムin広島」を広島市中区の中国新聞ビルなどで開いた。「戦争を伝える 平和を考える」をテーマに、各紙の記者が戦後70年をたどる取材や連載について報告した。近畿大専任講師の大澤聡氏(メディア史)の基調講演や、広島市が養成する被爆体験伝承者の講話を踏まえ、戦争体験を伝える報道の在り方や地方紙の役割について議論した。(奥田美奈子)

 戦争体験を伝える報道をテーマにした全体討議では、課題や地方紙の役割について記者たちから発言が相次いだ。

 北國新聞社の森田奈々記者は「長い年月を経てろ過された記憶を、史実と照らし合わせながら記事化するのに苦労している」と語った。南日本新聞社の深野修司編集委員は「残された資料には書き手の解釈が入り交じる。どこまでを記事として伝えるべきかの判断が難しい」とし、新潟日報社の笹川比呂子記者も「記事が過去の出来事を未来に伝える資料にもなるという自覚が欠かせない」と話した。

 過去の記憶を掘り起こすだけでなく、今を見つめる視点の重要性について議論が及ぶと、中国新聞社の水川恭輔記者は「70年たった今だからこそ聞ける言葉もある。生活苦や病気を乗り越えた戦後の人生も含め証言を残したい」と強調した。山陽新聞社の平田知也記者は中国残留孤児だった人を紹介し「今も日本語が書けずに苦労されている。戦後は続いているとの意識を忘れてはならない」。京都新聞社の森敏之記者も「孫と日本語で会話できず、体験を語り継げないとの声を聞いた。今に残る戦争の傷痕を追う必要がある」と述べた。

 各紙の報告を振り返り、熊本日日新聞社大津支局の横山千尋支局長は「戦争を伝える切り口が数多くあった。まだ掘り起こされていない証言や事実がたくさん眠っているのではないか」と指摘した。信濃毎日新聞社の前野聡美記者は「同じテーマでも地域によって状況や課題に違いがあると再認識した。他地域や日本全体を見渡す広い視野を持ちたい」と話した。

 地方紙の連携を促す大澤講師の提言を受け、神戸新聞社の小川晶記者は「社内での議論だけでは考え方が硬直化する。今後の報道の在り方について各紙の記者と議論することは意義深い」と受け止めた。パラオからの引き揚げ者を取材した河北新報社の瀬川元章記者は「同じ境遇の人が九州にもいるが音信不通という。関連の地方紙と協力し、現状を探る手法があってもいい」と提案した。

 今後の地方紙の役割について、高知新聞社の真崎裕史記者は「取材相手に協力を仰ぎ、子どもが体験を聞ける場をつくるなど紙面以外の発信方法も考えたい」。静岡新聞社の大須賀伸江記者は「地方紙記者だからできることは何かを考えたい。そのためにも地域の人たちと、戦争の記憶を伝え、平和を考えたいとの思いを共有していこう」と呼び掛けた。

次世代継承へ連携重要

 ジャーナリズムは、戦争の記憶とどう向き合ってきたのか。証言を残そうと機運が高まったのは1970年代だ。戦争を知らない世代が多数を占め始めた。戦争体験者が減りゆく中で、90年以降は遺品や資料から記憶や新事実を掘り起こす作業を重ねてきた。戦後70年を迎え、今後はいかに次世代へ継承するかを考える時代に入った。

 障壁となるのが歴史感覚のずれだ。先日、進学相談に訪れた高校生の発言に驚いた。90年代の「古い」小説が好きだという。彼らにとっては90年代すら遠い過去。記事が前提とする事実や社会の雰囲気がどんどん伝わりにくくなっている。

 呉市出身の私は、祖父母から原爆や空襲の話をよく聞いた。一方、私の両親は戦後生まれのため、孫に当たる私の息子が身近な人から戦争について伝え聞く機会はないだろう。こうした世代と記憶を分かち合うことを意識した、新たな「語り口」を見いだしたい。

 継承の手段の一つに新聞があるが、たとえ良い情報でも、読まれなければ継承につながらない。読ませる工夫が一層求められる。例えば、事実を淡々と伝えるのではなく、取材のきっかけや情報を取捨選択する様子、記者の心情まで盛り込む記事があってもいい。そんな文脈も併せて開示すれば、情報の価値を見失わないですむ。

 ただ、新たな手法には注意も払いたい。分かりやすさを求めるあまり、過剰な「物語化」に陥ってはならない。作り手の尺度が入り込んだ読み物を、数十年先の人たちが客観的な事実と誤認する危険性がある。どんなに克明な記録を心掛けても、100%忠実に再現できない出来事とは一定の距離感を保つことは、ことさら重要になる。

 時間の経過で証言はあいまいになり、裏付けを取るための資料も乏しい。真か偽か、二項対立では扱えない記憶と向き合う局面を迎えた。こうした中、提案したいのは地方紙の横のつながりの強化だ。

 各紙が地元で丹念に集めてきた証言や資料を、互いに突き合わせられないか。点在する局所的な事実をつなげば線になり、単独ではたどり着けなかった立体的な歴史が見えてくるかもしれない。蓄積してきた記憶の活用を考える、次の段階へ踏み込むときだ。取材・発信のテクニックの共有も図りたい。互いを知れば自社の特性に気付き、新たなアイデアの創出につながるはずだ。全国メディアとは違う、地方紙ならではの役割を果たしてほしい。

おおさわ・さとし
 1978年、呉市生まれ。東京大大学院総合文化研究科博士課程修了。日本学術振興会特別研究員を経て、2013年から現職。ことし1月に「批評メディア論 戦前期日本の論壇と文壇」(岩波書店)を刊行した。

被爆講話

広島市の「被爆体験伝承者」 保田麻友さん(30)=広島市南区

 被爆70年を迎えたことし4月、広島市の「被爆体験伝承者」を委嘱された。約3年にわたる研修を受けた1期生50人の1人で、高齢化が進む被爆者の体験や平和への思いを語り継ぐのが役割。学校などの依頼を受け、80代男性の体験談を紹介している。

 平和関係のボランティア活動で被爆者と対話したのが、伝承者を志願したきっかけ。大切な人を亡くし、生き残った自分を責め、今も苦しむ姿を見た。この現実が忘れ去られてはならないと感じた。

 被爆者本人の音声、映像などの証言記録もある中、存在意義を問われることがあり、批判も受ける。ただ、証言に触れるため、原爆資料館などへ自ら出向く人がどれだけいるだろう。特に若い世代では、話題にも上らない。私たちの活動は、より多くの人に伝える方法の一つとして受け止めてもらいたい。

 語り方の模索は続く。迫真の演技で、本人らしく伝えるのが良いと最初は思った。でも、決して私の体験ではない。冷静さを失うと、かえって共感を得られなかったり、誤解を招いたりする恐れもあると気付いた。伝承者としての立場をわきまえ、事実を正しく伝えることに今は徹したい。

12社の事例報告

山陽新聞社報道部 平田知也記者

証言者との交流に学ぶ

 太平洋戦争中の1944年、オーストラリアの捕虜収容所で日本兵が集団脱走し、多くの死者が出た「カウラ事件」。生きて虜囚の辱めを受けず―という戦陣訓の精神を貫いた一斉蜂起で、国家による洗脳が引き起こした悲劇といえる。

 事件を目の当たりにした元捕虜の立花誠一郎さん(94)=瀬戸内市=と岡山市の山陽女子高生徒の交流の取材を続けている。今年は、ハンセン病患者としても生きてきた立花さんの人生を記録した17枚のパネルを生徒が作り、文化祭で展示した。「事件の記憶を後世に」と証言を続ける立花さんと、思いを受け継ごうとする生徒。平和を守るため、戦争を知らない世代にできることは何かを痛切に考えさせられる。

中国新聞社報道部 水川恭輔記者

資料で浮かぶヒロシマ

 被爆70年の企画「伝えるヒロシマ」では、原爆の犠牲者の遺品や記録文書を読者から募った。被爆者の平均年齢が80歳を超える中、証言を聴くだけでなく、多様な資料を掘り起こして惨禍を伝えようと試みた。

 読者からは家族の形見のはがきや救護所の記録が寄せられ、特集やニュースで報じた。原爆をめぐる代表的な手記や絵の連載も展開した。わが子を奪われた親の悲しみなど、当事者として話せる人がほとんどいなくなった思いまで浮かび上がらせることを意識した。

 一方、被爆者の証言は原爆、戦争を今に引きつけて考えさせてくれた。今も健康を脅かす放射線の恐怖、安保法案への危惧…。今後も証言と資料の両輪でヒロシマを伝えていきたい。

高知新聞社報道部 真崎裕史記者

「実相」を具体的に詳述

 昨年2月から連載「秋(とき)のしずく」を続けている。意識しているのは「市民の記憶」だ。戦場体験者だけでなく、銃後の妻や子どもなど、一人一人の体験から「戦争の実相」にアプローチしている。

 「戦争は愚かだ」といくら言っても、体験していない世代には伝わらない。当時の時代状況を交え、具体的に詳述する必要がある。体から血が噴き出し、臓器が飛び散る。それを野犬が食らう―。戦争は決して美しいものではない。

 当時の新聞記事も引用し、ゆがんだ報道の中で人々がどう生きたのか、メディアの責任も含めて取り上げている。それは自戒でもある。加害の側面など、伝えるべきことはまだまだあると感じている。

熊本日日新聞社大津支局 横山千尋支局長

加害の面も心掛け紹介

 2年前から長期連載「伝えたい 私の戦争」と題して、戦争体験者の貴重な証言を1人3回前後で毎週紹介してきた。

 体験者は80~90代と高齢だが、「日本が悲惨な戦争を繰り返さないために、戦争の実態を伝えるのが私たち生き残った者の使命」と長時間の取材にも快く応じてくれた。当時を思い出して、言葉に詰まったり涙を浮かべたりしながら証言してくれた。被害だけでなく加害の視点も心掛けた。

 戦争記憶の継承をテーマにしたシンポジウムや戦争遺産のルポ、バスツアーも開催。今年8月には戦争企画展「つなげよう平和のバトン」(16日間)を開き、体験者のリレートークや写真、遺書などを展示し、5300人が来場した。

南日本新聞社 深野修司編集委員

特攻と県民の関係重視

 軍用機の搭乗者が自らの命もろとも、敵艦などにぶつかっていく「航空特攻」は、人命軽視が際立った太平洋戦争の日本軍を象徴する戦法だ。鹿児島県は1945(昭和20)年3月以降、沖縄など南西諸島海域へ向けた航空特攻の一大出撃地となり、2229人が戦死した。これは戦争中の航空特攻総戦死者約4千人の半数以上に当たる。

 戦後70年、体験者の高齢化が進む中、南日本新聞は、現時点で鹿児島に刻まれた特攻の「記憶」を可能な限り残したいと、2014年12月、企画「特攻この地より」を始めた。

 重視するのは、戦史などには載らない、県民の特攻への関わりだ。後世の研究に資するような「事実」を記録していきたい。

京都新聞社報道部 森敏之記者

記憶継承阻む壁 可視化

 70年前のことを残すだけでなく、記憶継承を阻む壁を可視化したい。戦後70年企画「時を渡る舟」は、現在の社会問題に迫った。レコードやガリ版といった記憶媒体は劣化し、戦時中の運動会を撮影したテープは再生できない。「青焼き」の裁判記録が感光して青く染まるなど、記憶を伝える足元はぐらついていた。

 在宅しているのに「オレオレ詐欺」を警戒して応答せず、施設入所を機に思い出の品と切り離されてしまうお年寄りたち。取材の中で、「老い」と個人の追憶を取り巻く社会の過酷さにも直面した。

 紙面で伝えきれなかった証言や資料をホームページで紹介した。地域の歴史を地域で共有する橋渡しも地方紙の役割の一つだろう。

神戸新聞社報道部 小川晶記者

誠実に言葉と向き合う

 兵庫県内の戦争体験者の記憶を聞き語りでまとめるシリーズ「戦争と人間」を2013年に始めた。シベリア抑留や沖縄戦、ビルマ戦線などの経験を紙面化し、現在7部まで続いている。

 体験者の思いはさまざまだ。南方の激戦地から生還した元陸軍将校は「戦争はまた起こる」と断言した。シリーズの趣旨に沿わないと感じたが、その理由を丁寧に取材し、記事にした。

 戦争を知らないからこそ、体験者の言葉に誠実に向き合う。一方で、現存資料と突き合わせて事実確認を徹底する。インタビュー動画をウェブサイトに載せ、記録性にもこだわる。

 戦後の歳月の長さと証言の重みをかみしめながら、終戦71年以降も息長く掲載を継続していきたい。

河北新報社白石支局 瀬川元章記者

原野開拓 塗炭の苦しみ

 宮城県南部の蔵王町に、太平洋戦争の激戦地パラオからの引き揚げ者が入植した北原尾地区がある。今年4月にパラオを訪問された天皇、皇后両陛下は6月、北原尾にも足を運ばれた。

 南のジャングルから、北のジャングルへ。パラオで築いた暮らしを失った人々は帰国後、蔵王山麓の原野を手作業で切り開いた。戦争による2度の逆境を耐え忍び、酪農地帯に育てた。

 東日本大震災の被災地にも度々訪れるなど、両陛下の精力的な行動力に驚く。北原尾は歓迎ムードに包まれたが、戦後70年がたっての訪問に複雑な思いを漏らす人もいて、塗炭の苦しみを思い知った。戦争体験者が高齢化する中、節目の年にこだわらず日々、地域で報道を続ける。

新潟日報社報道部 笹川比呂子記者

兵士送る拠点 歴史発掘

 1930年代、新潟は鉄道や航路の整備が進み、日本と旧満州(中国東北部)の首都を結ぶ最短ルートに浮上した。こうした地政学上の理由から、日中、太平洋戦争では兵士や軍需品、満州移民を大陸に送る拠点となった。長期連載「にいがた戦後70年」では、県内金属加工産地が軍需産業に転換する姿や県出身満州開拓団の悲惨な末路などを伝えた。読者から「体験者の話をじかに聞きたい」と多くの要望があり、手応えを感じた。

 戦時体験者が減り、当時の埋もれた歴史を発掘する地方紙の報道の意義は増している。戦後、新潟は対岸との貿易や交流にその立地を生かしてきた。二度と戦時のような役割を負うことがないよう、警鐘を鳴らし続けたい。

信濃毎日新聞社飯田支社 前野聡美記者

国策 民の視点で見抜く

 長野県南部の飯田下伊那地方で、満州移民の歴史や帰国者の今を取材している。長野県は全国最多の約3万3千人を送り出し、この地方が約8300人を占める。

 戦後70年の今年、この歴史をどんな視点で伝えたらいいか悩んだ。若い世代と一緒に満州移民の歴史や日中関係を考えようと朝刊社会面に「孫世代『満州』と向き合う」を連載した。

 満州移民の歴史から得る教訓の一つは、国策を地方や民の視点でどう見抜くかだと思う。人々は国策で北の大地に送られた上、戦後も長く放置された。米軍基地や原発など、今も同じことが形を変えて起きていないか。戦争報道に限らず、普段から目を凝らして取材を続けたい。

静岡新聞社社会部 大須賀伸江記者

残留婦人の性被害追う

 旧満州国で終戦を迎え、30年以上現地にとどまった末に帰国した中国残留婦人を取材し、夕刊で女性向けに展開している「こちら女性編集室」に掲載した。反響があり、掲載後も大勢の女性に話を聞けた。終戦から本土への引き揚げを待つ間、女性たちの性被害に触れる人も少なくなかった。語り手はいずれも被害者ではないが、同じ日本人女性として口に出せなかったことを、ようやく語っていると感じた。70年という年月と、記者が同じ女性で壮年ということもあって、話しやすかったのかもしれない。

 記者としての役割を自覚した体験だった。71年目以降の課題ととらえ、自分にしかできないことを発信する準備をしていきたい。

北國新聞社社会部 森田奈々記者

実体験 悲惨さ知る材料

 石川は非戦災都市であり、地域で共有する戦争体験がないだけに記憶の風化が懸念される。戦後70年は、戦争体験者の証言を記録する最後のチャンスと捉え、丹念に話を聞いた。

 通年企画「戦後70年 記憶をつなぐ」では、戦地に行った人、抑留された人らを取材した。昔の記憶をたどる時間と労力のかかる取材だが、彼らの語りはどんな修飾語よりも戦争の悲惨さを教えてくれる。ふるさとの人々の実体験は、若い世代が戦争を現実のこととして想像する何よりの材料になるのではないか。

 「遺品は語る」と題した企画では戦地からの手紙などを紹介した。戦争体験者の子、孫世代の思いも伝え、世代を超えて語り継ぐ意識を高めたい。

日本地方紙ネットワーク代表 築田和夫氏(北國新聞社編集局長)

存在意義 一層高めよう

 地方紙12社で持ち回り開催しているフォーラムも今回の12回目で一巡する。その節目の会議を、8月に被爆70年を迎えたばかりのここ広島で、「戦争を伝える 平和を考える」とのテーマの下で開くことの意義をあらためて痛感している。

 各社それぞれ力のこもった戦後70年の連載・企画に基づいて現場からの報告がなされる。思いを共有し意見を交換し合って有意義な会としていこう。

 地方紙ネットワークに参加する12社の発行総部数を計算してみると500万部を超える。これは全国紙とも肩を並べる部数である。その役割の大きさはおのずと知られよう。これまで以上に加盟社相互の連携を強めてその存在意義を一層高めていければと思う。

日本地方紙ネットワーク加盟社

河北新報社、新潟日報社、信濃毎日新聞社、静岡新聞社、北國新聞社、京都新聞社、神戸新聞社、山陽新聞社、中国新聞社、高知新聞社、熊本日日新聞社、南日本新聞社

(2015年10月16日朝刊掲載)

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