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高橋昭博氏が死去 元原爆資料館長 国内外で被爆証言 80歳

 元原爆資料館長で、被爆体験の継承に力を注いだ高橋昭博(たかはし・あきひろ)氏が2日午前7時42分、心不全のため広島市中区の病院で死去した。80歳。広島市西区出身。自宅は広島市西区草津梅が台9の3。葬儀は4日午前11時から広島市南区大州5の3の22、平安祭典広島東会館で。喪主は妻史絵(ふみえ)さん。

 爆心地から1.4キロの中広町(現西区中広町)にあった旧制広島市立中(現基町高)校庭で被爆し、全身に大やけどを負った。1951年から市職員。56年、広島県被団協結成に加わるなど被爆者運動に尽力した。

 79年から4年間、原爆資料館の館長を務めた。公務の傍ら、「憎しみで憎しみを消すことはできない。憎しみを乗り越えてこそ平和が来る」と対話を重視し、国内外で被爆証言を重ねた。80年、原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長だったポール・チベッツ氏と米国で面会。文通を続けた。

 95年、市を定年退職。2008年には市で開かれた主要国(G8)下院議長会議(議長サミット)の参加議長に、昨年は国連事務総長として初めて平和記念式典に参列した潘基文(バンキムン)氏に被爆体験を語った。オバマ米大統領には4回手紙を送り、被爆地訪問を訴えた。政府の「非核特使」も委嘱された。

 08年、谷本清平和賞を受賞。一昨年に腰を痛め、車いすで証言活動を続けた。今年4月から心筋梗塞で入院していた。(金崎由美)


高橋昭博さん死去 遺志継承 声広がる

 元原爆資料館長で被爆者の高橋昭博さんが亡くなった2日、被爆者や関係者の間には、その功績をたたえ、悼む声が広がった。

 高橋さんが結成に関わった広島県被団協の坪井直理事長(86)は「高橋さんの足跡は広島県の被爆者運動の歩みそのものだ。まだまだ生きてほしかった」としのび、「核兵器廃絶への思いをわれわれがしっかり引き継ぐと伝えたい」と語った。

 もう一つの県被団協の金子一士理事長(85)も「核兵器廃絶へ信念を持ち、国内外で努力された。非常に残念だ」と話した。

 原爆資料館の前田耕一郎館長(62)は「自らの体験を力強く発信し続けられた」とたたえる。10月27日に入院先へ高橋さんを訪ね、自然に剥がれたという爪の寄贈を受けたばかりだった。高橋さんの右手の人さし指の爪は被爆後から変形したまま伸び続けていた。

 「高橋さんの死は、広島にとって大きな痛手」と、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会の森滝春子共同代表(72)。「病気と闘いながら晩年まで自分の言葉で核兵器の悲惨さを証言され、国内外に衝撃と感動を与えられた」と振り返った。

 広島市の松井一実市長は「故人の遺志を受け継ぎ、被爆体験や平和への思いを次世代の人々と共有し、世界恒久平和実現のために全力を尽くす」との談話を発表。秋葉忠利前市長は「核兵器廃絶のため渾身(こんしん)の力を込め行動された姿は脳裏に焼き付いている」とのコメントを出した。(金崎由美、田中美千子)


<評伝> 高橋昭博さん 被爆実態 伝え続けた半生

 被爆の実態を国内外に伝え続けた半生だった。元原爆資料館長の高橋昭博さんが2日、亡くなった。「原爆犠牲者の声なき声を後世に伝えるのが生き残った者の責務」。最後に取材した3月、言葉は途切れ途切れながら強い意志を感じさせた。病が進み証言活動が困難になっても、核兵器廃絶への執念が衰えることはなかった。

 あの日、爆心地から1.4キロで被爆し、生死をさまよった。戦後、広島市役所に勤めながら被爆者運動に心血を注いだ。

 原爆被害の非道を訴える一方、対話を重んじた。1980年、原爆投下機エノラ・ゲイの元機長ポール・チベッツ氏に米国で面会。「いまさら恨みつらみを言うつもりはない」と握手を求め、文通につなげた。「核兵器なき世界」を唱え就任したオバマ米大統領には広島訪問を要請する書簡を何度も送った。

 オバマ大統領が被爆地を訪問する際に謝罪するべきかと問うたことがある。高橋さんは「謝罪というハードルを突き付けるばかりでは廃絶へ進まない。ずっと同じ場所にとどまるのは未来志向ではない」と答えた。

 だが、別れ際に「昔は謝罪するべきだと思った。本当は今でも原爆を落としたアメリカが憎いですよ」と苦渋の表情も浮かべた。長年、核兵器廃絶を訴えた理想と非人道兵器による惨劇を忘れられない内面との葛藤を垣間見た思いがした。

 長年苦しんだ末にたどり着いた「和解」の訴えは重く、高橋さんが目指したゴールははるか遠い。その遺志をどう引き継ぐのか、被爆地に問われている。(金崎由美)

(2011年11月3日朝刊掲載)

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