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連載・特集

毒ガスの島70年 忘れ得ぬ記憶 <5> 細る継承活動

資料の活用策決まらず

 かつて教室だった部屋の扉を開けると、ほこりをかぶった資料が目に入ってきた。竹原市の旧忠海東小(忠海東町)。保存状況を確かめに来た住民6人はため息をついた。

 資料は忠海中(同)にあった。1992年からの数年、生徒が毒ガスを製造していた地元の大久野島の歴史を学び収集し、手作りした。防護服姿の作業員の人形や島の模型、毒ガス製造容器など100点以上。校内の一室を確保して展示、「資料室大久野島」ができた。学校関係者でなくても見学可能だった。

展示取りやめ

 展示取りやめは学校再編がきっかけだ。忠海東小と忠海西小(忠海床浦)を統合し、忠海中に小中一貫校を設けた。忠海中では校舎を増築したが、資料室は確保できなかった。使わなくなった忠海東小で保管、活用策を検討することになった。

 ただ資料を移して1年半余りになるが、活用策は決まらない。市教委は理由の一つに見学者の少なさを挙げるが反論もある。保存状況を見に来た6人の一人で市議の脇本茂紀さん(66)は「保管場所は施錠してあり、常時公開しているわけではない。見学者が少ないというのはおかしい」。一方で「教師と子どもが一緒になり、地域に残る戦争の傷痕について学ぼうという熱量が下がっているのでは」と危ぶむ。意欲があれば行政も対応せざるを得ないというわけだ。

現場の声なし

 資料の問題は平和学習全体の問題という指摘もある。校長の一人は「現場から平和学習の場として大久野島をもっと活用するべきだとの声も出てこない」。

 市教委によると、忠海地区の小中学生は3年に1回、合同遠足で島に渡り、市が管理運営する毒ガス資料館で学ぶ。初代館長の故村上初一さんが健在だったころは、各校が村上さんを招くなどしていた。今は副読本で島が毒ガス製造拠点だったと学ぶくらいという。

 市教委の久重雅昭教育次長(54)は、平和教育の重要性を認めつつ「毒ガス障害者が減っている中で何ができるか考えたい」と説明。資料の活用は忠海東、西小の跡地利用を検討する中で議論したいとする。

 市民団体「毒ガス島歴史研究所」の山内正之事務局長(70)は「大久野島は生きた教材。子どもたちに語り継いでいく場を継続的に設けることが大切」と訴える。(山下悟史)=おわり

大久野島の毒ガス資料館での平和学習
 竹原市などによると、資料館を訪れた県内の小中高校は2001年度は65校だった。04~10年度は9~18校。11年度以降は4、5校となった。14年度は県内の6校が見学に訪れているが、竹原市の学校はゼロだった。

(2015年10月18日朝刊掲載)

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