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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 梶本淑子さん―燃える街 必死に逃げた

梶本淑子(かじもと・よしこ)さん(84)=広島市西区

憎しみ捨て「原爆の罪」伝え続ける

 「地球が爆発したかと思った。目の前の土地が、ぱーっと吹(ふ)き上がり、一緒(いっしょ)に私も浮(う)き上がった」。梶本(旧姓木村)淑子さんは、被爆の瞬間(しゅんかん)をこう振(ふ)り返(かえ)ります。当時は14歳で安田高等女学校(現安田女子中高)の3年生。学徒動員で、爆心地の北約2・3キロにあった広島市三篠町(現西区)の工場で、飛行機のプロペラ部品を製造中でした。

 窓に真っ青な光が走りました。直撃弾(ちょくげきだん)だと思い、「ここで死ぬんじゃ」と家族の顔が浮かびました。機械の下に潜(もぐ)ったところで気を失いました。

 「助けて」という友達の叫(さけ)び声で意識が戻りました。木造2階の建物の下敷(したじ)きになっており、頭と手しか動きません。下にいた友人が懸命(けんめい)に体を揺(ゆ)すって脱出。梶本さんも何とかはい出ました。右腕(うで)にはガラス片が刺(さ)さり、右足を抜(ぬ)く際に向こうずねの皮膚(ひふ)が裂(さ)けました。

 街は怖(こわ)いぐらい静か。朝なのに暗く、赤土のような、魚の腐(くさ)ったような臭(にお)いがしました。同級生を担架(たんか)に載(の)せ、みんなで北へ。はだしの足が痛かったです。

 途中(とちゅう)の大芝公園(現西区)では木の陰(かげ)に、ひどいやけどで傷ついた人や亡くなった人が何人も横たわっていました。その晩は、火の手が上がる街を見て「家はどうなっとるんかね」と泣きながら川土手で夜を明かしました。

 翌日は民家に泊(と)めてもらい、3日目に安村(現安佐南区)の住民からおむすびをもらいました。それが原爆投下後、最初に物を食べた記憶です。

 己斐(現西区)の自宅に帰ろうと歩き始めました。捜(さが)しに来た父と途中で再会。父は小さな白いおむすびを出しました。「淑子が見つかったら死ぬ前に食べさせて」と母が持たせたそうです。家に着くまで我慢(がまん)して、弟たちと分けて食べました。

 戦後は大変でした。爆心地から約2・5キロの自宅で被爆した父は、無傷だったのに1年半後に急死。母も入退院を繰(く)り返すようになりました。「私が何とかせんとみんな死んでしまう」。弟3人を食べさせ、母の入院費を払(はら)うため、親戚(しんせき)の洋服店で必死に働きました。

 「原爆はいつまで意地悪するのか」。1957年に結婚し、娘2人、孫4人、ひ孫1人に恵まれた今も、影響(えいきょう)が心配です。15年前、がんで胃を3分の2切除しました。わが子の病気にも「原爆のせいでは」と心が痛みます。「孫やひ孫まで後を引くのが原爆の罪」と訴(うった)えます。

 現在、主に修学旅行生に年約130回証言しています。2000年、当時中学3年の孫娘に「証言してみたら」と言われたのがきっかけ。01年春から始めました。それまでは「隠(かく)し、忘れようとしているのに何で思いださんといけんの」と思っていました。今は「二度と過ちを繰り返してほしくない。一人でも多くの人に聞いてほしい」と力を込(こ)めます。米国やスペインにも行きました。

 心に残る感想もたくさんもらいます。死のうと思っていた子が前向きになったり、平和関連の仕事を目指したり…。米国の高校生から「済みませんでした」と謝罪され、「子どもを謝らしちゃいけん」と思いました。「米国を憎(にく)んできたけど、それじゃあ人間成長しない。どこかで許さないと報復を繰り返し、戦争は終わらない」。今は憎む気持ちは全くないと言います。

 証言を後世へ引き継ぐため、広島市が養成する被爆体験伝承者にも体験を伝えています。今、次女(54)が養成講座を受講し、孫も意欲を示しています。「意志をつないでくれるのはうれしい」(余村泰樹)



私たち10代の感想

悲劇二度と繰り返すな

 「被爆体験を人ごとではなく、自分のことのように聞いてほしい」と梶本さんは言います。忘れ去られてしまったら、悲劇が繰り返されかねない、という心配からだと思いました。原爆は70年後の今も人々を苦しめています。「二度とあんな過ちを犯さないで」という思いをもっとみんなに知らせたいです。(中1川岸言織)

幸せ守る大切さを痛感

 梶本さんは「戦後の10年間は地獄(じごく)だった」と表現しました。死を考えたこともあったそうです。自分のしたいこと全てをこらえ、家族を支えてきたのです。私のするお手伝いとは雲泥(うんでい)の差。学校から帰ると、温かい母のご飯が待っています。そんな、ささやかな幸せを守り続ける大切さを痛感しています。(中2鬼頭里歩)

同世代の体験 伝えたい

 父を亡くした後、女学校を出たばかりの梶本さんが家族を養った話が印象に残りました。戦争は容赦(ようしゃ)なく子どもを巻(ま)き込みます。朝から晩まで働き、友達とゆっくり話せないつらさもあったはず。当時の梶本さんと同世代の私は養われる側。働くことは想像できません。聞かせてもらった体験を友達にも話したいです。(高2岡田春海)

(2015年10月19日朝刊掲載)

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