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社説・コラム

社説 戦後70年の大久野島 語り継ぐ努力を今こそ

 「毒ガスの島」より「ウサギの島」の代名詞が定着したのかもしれない。竹原市沖の大久野島を訪れる人が増えている。島で暮らすウサギたちが動画投稿サイトなどで話題となり、特に外国人に魅力的に映るようだ。

 国民休暇村のある島のにぎわいは喜ばしいが、島内の毒ガス資料館が伝える重い歴史も訪れる人にもっと知ってほしい。

 1929年から終戦近くまで猛毒イペリットをはじめ国際法で使用が禁じられた各種の化学兵器を製造し、秘密保持で地図からも消された事実である。

 観光客らの安全には問題ないと説明されているが、かつて原料として島に持ち込まれたヒ素の土壌残留の問題や、終戦直後に周辺海域に投棄された化学弾の行方などの「負の遺産」を背負い続けてもいよう。

 きょう、島では恒例の毒ガス障害死没者慰霊式がある。終戦から70年の節目でもある。未来に語り継ぐ決意を、まず地域として新たにしておきたい。

 中国地方の戦争の実相を語る上で、大久野島の歴史は原爆投下とともに欠かせないものだ。ただ原爆に比べ、継承の努力という点で地域のエネルギーが薄まってきたようにも思える。

 むろん平均年齢で80歳代後半に差し掛かった体験者の高齢化が背景にあろう。毒ガス製造に携わり、あるいは進駐軍の命で戦後の処理作業に従事して慢性気管支炎などの後遺症に苦しんできた人たちだ。健康管理手帳の所持者数でみるとピーク時の半数をはるかに下回る。

 今後は、生の証言を聞ける機会はさらに減っていこう。援護策の拡大などに力を尽くしてきた被害者の団体が存続の岐路に立つことも見過ごせない。

 さらに史実の掘り起こしも先細りの恐れがある。毒ガスが持ち込まれた中国の被害を含め、調査して記録に残していく活動は前ほど活発とはいえまい。元少年工として「語り部」の役割を担い、毒ガス資料館の初代館長も務めた村上初一氏が3年前に世を去ったのも大きい。

 このままでは歳月とともに記憶が埋もれかねない。「加害」の側面を持つゆえ行政や教育現場が扱いに慎重になるのかもしれないが、次の世代へ確実に継承する工夫を急ぐべきだ。

 個々の証言に限らない。島に残る遺構の国史跡指定を求める運動が、かつて盛り上がったことがあった。戦争遺跡の文化財指定は日本全体の流れとなっている。一つのきっかけとして再び声を上げたらどうだろう。

 地元の視点だけでは広がりを欠く。世界情勢が混迷する今だからこそ、大久野島から警鐘を発する意味もあるはずだ。

 折しも第1次世界大戦で毒ガスが初めて本格使用されてことしで100年である。非人道兵器の開発競争が日本に至った結果が大久野島といえよう。18年前の化学兵器禁止条約の発効で歯止めはかかったと思いきや、化学兵器の使用が現実の脅威として再び深刻になりつつある。

 シリア内戦のほか、過激派組織「イスラム国」による使用も取り沙汰されるからだ。

 そもそも民間にあふれる毒性物質は、簡単に兵器へと転用されうる。毒ガスの脅威を誰よりも知る大久野島の経験を、蓄積された診療データを含めて人類全体の教訓にしていく。そんな気構えがあってもいい。

(2015年10月22日朝刊掲載)

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