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「連携深め援護情報共有」 広島で被爆「台湾の会」会長 李龍波さん

 台湾の被爆者と遺族でつくる「台湾被爆者の会」が5日発足し、広島市で被爆した李龍波さん(83)=台北市=が会長に就いた。李さんは「台湾にも援護制度の情報がもっと届くよう、被爆者者同士で連携したい」と話す。

 李さんは被爆当時、旧制修道中の4年生。日本の植民地支配下の台湾では、李さんのように日本に教育機会を求める人が少なくなかったという。「学徒動員が始まるまでは勉強が楽しかった。本当に良い学校だった」

 66年前の8月6日、李さんは爆心地から4.5キロ離れた学徒動員先の江波町(現中区)の三菱重工業広島造船所にいた。「突然、光と熱、目や鼓膜が破けると思うほどの圧力を感じた」。窓際にいてガラス片を浴びたが、幸いけがは軽かった。

 爆心地約1キロの竹屋町(同中区)の下宿に戻ると、焼け落ちて跡形もなかった。その後は大家の親戚の疎開先に身を寄せた。終戦後の12月、日本での大学進学を断念し、台湾に帰った。帰郷後は小学校教諭になった。

 被爆体験は家族にも詳しく語ったことはない。焦土の市街地に「水を」「苦しい。殺して」と懇願する声がこだました。「話しても分かってもらえんでしょう」と諦めていた。控えめな語り口に広島弁が交じる。

 転機は2004年。台湾人被爆者についての現地の新聞記事を読み、日本政府の援護制度を初めて知った。当時は来日が義務付けられていたため、記事を参考に長崎県へ行き手帳を取得した。

 今年に入り、国交がなく援護が届きにくい台湾の被爆者を支援しようと、広島と長崎の市民団体関係者が訪ねてきた。「ありがたかった」。これをきっかけに5月、韓国や米国などの約3千人以上が原告となる在外被爆者訴訟に加わった。

 被爆者の会結成に参加した台湾人被爆者は12人。大半が80歳を超える。自身も年々体力が衰える。「悲惨な体験をした父の力になりたい」。そう言ってくれる長男の昭陽さん(59)が活動の支えだ。李さんは「活動を通して援護制度が伝われば私のように救われる人がもっといるはず」と期待する。(台北=金崎由美)

(2011年11月8日朝刊掲載)

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