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連載・特集

2001被爆者の伝言 金崎是さん (下) 冷酷な国、怒りおさまらん

金崎是(すなお)さん(84) 広島市西区福島町

 ▽米のモルモット扱い

 アメリカは、原爆を落としただけじゃなく、生き残った者をモルモットにして、被爆者からも生き血を吸った。診察はするが、治療はせんABCC(原爆傷害調査委員会)のことだ。亡くなった被爆者を解剖までして調べる。次の核戦争に備えた研究としか思えん。

 ABCCは一九四七年、米国が設立し、原爆の放射線が人に及ぼす影響を研究。七五年、日米共同運営の放射線影響研究所に改組された
 娘が小学五年の時、診察させてほしいとの申し出が二、三回あった。昼間、私のいない時に家に来たが、妻が断った。すると、学校帰りを待ち伏せされ、車に乗せられて連れていかれた。まるで誘拐。そんなひどいことまでする。まったく人間扱いをしない。

 ある時、ABCC反対の話をしに、町内を回った。あるおばあちゃんの家に行ったら、「これ見んさい」と缶詰を見せられた。ABCCがくれたと言う。「ほかにだれがくれるんね。近所の人も何もしてはくれん」。予期せぬ言葉じゃった。

 このおばあちゃんだけじゃない。目が悪い別のおばあちゃんは、眼鏡をもろうとった。相当そんな人がおったんじゃないか。原爆を落とし被爆者をモルモット扱いするアメリカから…。日本人としての誇りまで奪われてしまった。でもだれが、おばあちゃんを非難できるのか。日本政府が、被爆者を十年以上も放置した結果だ。

 被爆者の健康診断と必要な治療を国費で行う原爆医療法の施行は五七年。原爆投下から十二年後だった
 被爆者の中には、部落差別と貧困にさらされ三重苦の人もいた。生きていて良かったと思えるようにしなければと、地元で被爆者の会づくりを始めた。仲間と一緒に、毎晩のように被爆者の家を一軒ずつ回った。会ができて、推されて会長になった。

 ▽「三重苦の壁」が存在

 読み書きができない人が多かった。市の職員に来てもらい、(被爆者健康)手帳を取るのを手助けもした。体験を聞いて手記集も作った。三重苦の壁が、われわれの前に立ちふさがっている。そう思って、手記集は「壁」と名付けた。

 「壁」は六八年に創刊。七九年まで一年間を除き毎年発行した。十六年の空白の後、九五年の十二集で幕を閉じた
 同じ原爆に遭いながら差別されとる人は、ほかにもおる。外国人だ。無理やり連れて来られて被爆した者もおる。たとえ外国人だろうと、あの原爆に遭ったことは変わらん。日本人と同じように扱うべきだ。

 国は昔からずっと、被爆者に冷淡だった。今も変わらん。被爆者が生きていて良かったと本当に思えるんだろうか。そう思って亡くなっているのか。怒りがおさまらん。

(2001年7月21日朝刊掲載)

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