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連載・特集

2001被爆者の伝言 竹内武さん (上) 医療給付の実現、うれしかった

竹内武さん(73) 広島市西区己斐本町

 わしは子どもの時から障害があったから、障害がなかった時のことを知らん。ええ時を知らん。じゃが、原爆に遭ったもんは、八月六日に突然、障害を負った。あの原爆さえなかったら、といつも考えるじゃろう。「あの人たちの方がつらい」と思うた。少しでも役に立てればと思うた。

 小児まひの後遺症で左足が五センチ短く、幼少時から歩くのが不自由。十七歳の時、学徒動員先の己斐郵便局で被爆した

 ▽怖さ伝えた女性証言

 終戦後、一九五三年まで郵便局に勤めた後、障害者の職業訓練所でラジオ修理を習いよった。五五年の春に、知人に誘われて原爆被害者の会に入った。そうしたら夏に第一回原水爆禁止世界大会が広島であるということになり、準備を手伝うことになった。

 その時、広島開催を誘致した藤居平一さん(九六年、八十歳で死去)と出会ったんです。「平一つぁん」と呼ばれ、すごく熱心な人でねえ。家業の材木屋が傾くほどに運動に飛び回っとった。

 世界大会で、顔にケロイドのある女性に証言してもらうことになった時も、嫌がる女性たちを「話をせんにゃあ、原爆のむごさは人には分からんのんじゃけえ」と必死に説得しとった。そばで聞いとって、「なるほどなあ」と思わされたよね。女性たちも証言に出てくれて、原爆の怖さを伝えることができた。

 翌五六年三月、県内各地の被爆者約四十人を集め、被爆者援護を求める国会請願のため上京。当時の鳩山一郎首相や池田勇人蔵相に惨状を訴えた

 ▽組織つくろうと約束

 東京から帰る途中、ある主婦が詩を書いた。「悲しみに苦しみに 笑いを遠く忘れた被災者の上に 午前十時の日差しのような暖かい手を 生きて居て良かったと思い続けられるように」とつづられ、被爆者の思いが込められとった。みんなで回し読みし「それぞれ地元で被爆者組織をつくろう」と約束したんです。

 五六年五月に広島県被団協、同年八月に全国組織の日本被団協ができた。藤居さんは両団体の代表委員、竹内さんは県被団協の事務局員になった。五七年、原爆医療法ができ、被爆者健康手帳による医療給付への道が開かれた
 運動を始めたころは、市民の多くは自分が食うのに一生懸命で、広島でさえ被爆者救援の機運は盛り上がってなかった。「戦後の苦しい政府に、そんなことはできやあすまあ」と言われたこともある。それだけに法律ができた時はただただうれしかったのを覚えとる。

 ただ、被爆者への冷たい目もあるんよ。病院に行ったとき、手帳を見せれば自己負担がいらないこともあって、「被爆者はええよねえ」と言われたりする。原爆症の不安、世間の偏見もあるのに。「代われるならいつでも代わってあげる」って言いたいよね。

(2001年8月1日朝刊掲載)

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