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連載・特集

2001被爆者の伝言 安井晃一さん (上) 原爆症認定、距離で線引きおかしい

安井晃一さん(77) 札幌市北区

 ▽母子の死に強い衝撃

 あの日、木陰で赤ん坊を産み落としている女性に会った。ただれた手でぼろぼろの服を裂いて、わが子を包もうとしていた。女性は力尽きたんでしょう。崩れるように倒れて動かなくなった。産声も聞こえない。

 ものすごい衝撃だった。何もできん自分に腹も立った。人間らしく死ぬことすら許さなかったんですよ、原爆は。僕は軍人だったけど、その時、絶対に戦争を許さんと誓った。

 爆心地から約一・九キロの広島陸軍船舶通信隊補充隊(皆実町)の兵舎で被爆。負傷者の救援活動や遺体の焼却作業に従事し、八月末、北海道に帰郷。一九五四年に十勝管内の中学校で教職に就いた
 被爆者が異口同音に言うのは、「助けて」という人を見殺しにし、自分だけ生き延びた後悔ですよ。僕も小樽の実家に帰って、無気力な毎日が続いた。比治山で赤むくれの少年が「兵隊さん、かたきを取って」って言いながら死んでいった光景がちらつくんだ。

 働き出すと病気の連続だ。心筋梗塞(こうそく)、肝炎、白内障…。これまで入院は二十二回。まるで病気のデパートだね。八〇年に退職するころ、校舎三階への上り下りも苦痛だった。教え子に迷惑かけられんから、定年まで五年あったけど辞めたよ。

 八四年に被爆者健康手帳を取得し、北海道原爆被害者団体協議会(現北海道被爆者協会)で仕事を手伝い始める
 被爆者から原爆症認定申請の相談に乗ってると、却下が多くて腹が立ってね。審査作業も遅いし、結局は爆心地からの距離で決めてるでしょう。二キロ以上だからだめっていう線引きは本当にばかばかしい。(判断基準の)DS86(被曝(ばく)線量推定方式)が信頼できんのは明らかでしょう。

 僕は時計を持っていたから、被爆後にいた場所と日時を記録していた。それを基に名古屋大の沢田昭二名誉教授が被曝線量を推定したら、DS86による線量の十~十八倍だよ。厚生労働省が最近、認定の新基準を出したけど、DS86を機械的に運用する限り、意味ないんだよ。

 九六年、前立腺(せん)がんを発病。原爆症の認定申請をしたが却下され、九九年十月、札幌地裁に提訴した
 この年齢だから、提訴はためらったよ。長崎の松谷訴訟は最高裁で勝つまで十年以上かかった。僕が死んだら裁判は終わりだから。でも弁護士やいろんな人が支援してくれてね。

 ▽誇りをかけた裁判

 金が目的じゃない、被爆者の誇りの問題だよ。どうせ死ぬなら子や孫に僕が原爆症で死んだと覚えておいてほしい。ただのがんじゃない、だから核兵器を使っちゃいかんと心に刻んでほしい。

 僕の裁判や運動の原点は、被爆後に会ったあの母親と赤ん坊のように、最低限の人権を奪った原爆が絶対に許せんという気持ち。突き詰めれば、原爆問題は人権の問題だと思っている。

(2001年8月3日朝刊掲載)

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