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連載・特集

2001被爆者の伝言 松重美人さん (中) 写真の役割、核廃絶まで終わらない

松重美人さん(88) 広島市安佐南区長束

  ▽夕刊紙に写真を掲載

 原爆投下の日に撮った御幸橋の写真を新聞に初めて載せたんは、翌年七月六日の「夕刊ひろしま」じゃった。もう少しすれば、ちょうど八月六日だったけど、特に、一年後に合わせて使おうとは考えんかった。

 仲の良かった同僚が「松ちゃん、あの写真使ってみよう」と言ったんが、きっかけになった。御幸橋で撮った写真が二枚。記事は、その記者が書いたんですよ。

  連合国軍総司令部(GHQ)が新聞用紙の割り当てなどで新興紙育成を図る中「夕刊ひろしま」は四六年六月一日、中国新聞を親会社とする独立経営の夕刊紙として創刊された。当時の部数は三万部
 「書いた人間と、写真を撮った人間は来い」。出た翌日ぐらいだったと思う。だれから聞いたのか忘れたが、GHQから呼び出しがあった。「それじゃあ、わしが行こうか」と一人で行ったんですよ。

 別に恐ろしいとも何とも思わんかった。行けば案の定、しかるんでも怒るんでもなしに「載せても良かったんじゃが、載せるんなら事前に連絡してほしかった」と言われた。別に「一筆書け」とも何にもなかった。

  ▽柔軟だった米の対応

 向こうは、金髪で二十七、八歳ぐらいだった。通訳も入れて話をしたと思う。おおらかで、想像以上に柔らかい対応だった。「あの写真も一枚焼いてくれ」と頼まれた。御幸橋の写真は、すぐ社に帰って焼いて、一時間もせんうちに、頼んだ本人に手渡した。

  GHQは四五年九月、プレスコードを指令、占領政策への批判など新聞や雑誌の報道を規制した
 規制は、戦争中の方がよっぽど厳しかったですよ。外で撮った写真は、たいてい軍の許可が要った。山の稜線が写っとったら駄目。でも、米軍は、日本軍とはまったく考え方が違った。日本の憲兵は、四角四面で融通がきかんかったが、米軍には柔軟性があった。

  五二年四月、六年余の占領が終わると、せきを切ったように、原爆関係の出版物発行や雑誌の特集が相次いだ
 プレスコードが解けてもう、どこを撮ってもええんじゃろう、いう気持ちになった。気を使わんでええから、ああこれで楽になったなあって思った。ちょうど戦争が終わって、灯火管制がなくなり電灯を堂々と付けたときと同じ。自由になった感じがした。

 あの御幸橋の写真は、米国の写真雑誌ライフや岩波書店の本なんかに載った。夕刊に載せて以来だった。後から思えば、もうちょっと早く世に出した方が良かった。世界で最初の原爆の悲惨さを伝えとる。その役割は、核兵器がなくなるまでは終わらない。まだまだ頑張ってくれよ。もし言葉が分かるんなら、そう声をかけたい。

(2001年8月11日朝刊掲載)

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