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連載・特集

2001被爆者の伝言 松重美人さん (下) 被爆体験話しよる時に倒れても本望

松重美人さん(88) 広島市安佐南区長束

 原爆の惨禍は、どんなにオーバーに言ってもオーバーにならんと思う。原爆投下の日に歩いて見た広島市中心部は、地獄の一語に尽きるようだった。千田町だったと思うんじゃが、学校のプールがあった。前の日は水がいっぱいあったのに、蒸発していて、底には、死体がいくつかころがっとった。

 ▽無残な死体、撮影せず

 一番悲惨だったんは、紙屋町で止まっとった広島駅行きの電車だった。十四、十五人ぐらいの乗客が、車内前方に圧縮されたようにかたまって死んどった。爆風のすごさを物語っとった。

 ステップに足をかけて中をのぞくと、目を開けたまま亡くなっている人たちが、こっちを見とるように思えた。撮ろうとしてファインダーをのぞいたが、一緒におった同僚が「やめとけや」と声をかけたんです。どうしようか迷っとった時だったんで、結局撮るのはやめにした。もし一人で歩いとったら、案外撮っとったかもしれん。

 米国や中国など核保有国でも、原爆投下の日の写真とともに核兵器廃絶を訴えた。一九八七年には、ソ連(当時)のモスクワであった核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の総会で被爆体験を話した
 三千人の聴衆に「あの日」、市内を歩いた体験を話した。結びには子どものことをちょっと話した。

 ▽親の姿捜す疎開児童

 確か四五年の十月だった。戦争が終わって広島県北に疎開していた子どもたちが、やっと広島に戻ってきた。家族が駅に迎えに来とったが、親兄弟が全滅して迎えが来ん子どもも多かった。

 その子らはぼう然と、家族と再会して大喜びしとる子を見とった。あまりにかわいそうで、よう写さんかった。十人ぐらいはおったじゃろうか。ほとんどの子が無言。すすり泣きの声も聞かれた。

 原爆はもちろんいけんけど、戦争自体がいけん。これからは平和な世の中をつくるよう、全人類が平和であるよう、みなさん努力してください。そう訴えたんです。

 短い時間だったけど、思いが伝わったんじゃないかな。拍手が止まらんかった。うれしかった。

 二十一世紀を迎えた今夏も、原爆写真展を開催。東京の中学生には、被爆体験を語った
 若い世代が、原爆のことや戦争のことをまったく知らんのが怖い。戦争になれば、最終的に核が使われる恐れがある。そう考えると、どんなに小さくても戦争と名の付くものがあったらいけん。戦争体験の風化を許していると、取り返しがつかなくなる。何とか若い人に知ってもらいたい。そう思うて、写真展はもう二十年以上も続けとる。

 大げさに言えば、被爆体験の話をしよる時、倒れても良い。そんな覚悟はある。元気な時は、こんなことは思わんかったけど、八十八歳の今は倒れても本望じゃ思う。(おわり)

(2001年8月12日朝刊掲載)

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