×

連載・特集

2001被爆者の伝言 物故者編 <上> 忘れまい魂の叫び 1980年代まで

 今は亡き、多くの被爆者たちが平和を願って言葉を残している。それは、時代を超えてなお、力を失わないメッセージである。「2001 被爆者の伝言」物故者編では、二回に分けて、文化人や著名人が生前に中国新聞紙上や著書などで語った言葉を特集する。(引用文の表現などは原文のまま。名前の後は、主な肩書、亡くなった年、年齢)

被爆者は世界平和の礎だ

 重藤文夫氏=広島原爆病院長。八二年、七十九歳

 「ヒロシマは二度と繰り返されてはならない。被爆者は世界平和の礎だ」

 七五年に引退するまで、診療した被爆者は十万人以上。「慈父」と慕われ、その生き方は「ヒロシマ・ノート」を書いたノーベル賞作家の大江健三郎氏にも大きな影響を与えた。

 引退した年、中国新聞のインタビューに答えて語る。

 「ヒロシマの被爆者は、その経験者なんだから、原爆の体験から得たものを、体験してないものに伝える必要がある。とにかく『忘れさせない』ということが大切ですよ」

弱い立場、力を合わせんと

  吉川清氏=「原爆一号」。八六年、七十四歳

  「あの日の屈辱が私を被爆者運動にかり立てるきっかけを与えてくれた」

 被爆二年後、背中一面のケロイドを見た米国の報道・科学者視察団から「原爆一号」と呼ばれた。退院後、原爆ドーム横で土産物を売り、請われれば傷痕を見せた。時には「平和屋」と非難されたこともあった。

  「買い手があればいくらでも裸になる。被爆者が生き、核をのろうことをだれが止める権利があろうか」

 広島で初めての被爆者組織をつくり、後の原水禁運動を担った。辛苦を共にした妻に、口ぐせのように言った。

  「被爆者は弱い立場じゃ。市は復興に力を入れとるが、被爆者は置き去り。それなら一人より二人、力を合わせんと」

比類なき非道、悲劇明らかに

 正田篠枝氏=歌人。六五年、五十四歳

 「どんな非道な行為も原爆投下に比べれば物の数ではない。人間がすでに原爆を投下したからには、この悲劇を明らかにして、あやまちを繰り返さないようにしなければならない」

 六〇年に被爆後の生活をつづった「あれから十五年」出版に際して語った。占領下の四七年、原爆歌集「さんげ」を秘密出版。「太き骨」論争もあった短歌は「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の台座に刻まれている。

広島の医師に破滅救う義務

 大内五良氏=広島県医師会長。八四年、七十四歳

 「果てしない核軍拡競争が続いている今こそ、世界の医師が手を結び核戦争防止に立ち上がるべきだ。被爆地広島の医師も被爆の実相を訴え、人類の破滅を救う義務がある」

 八二年、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)広島支部の結成で、支部長に就任して決意を述べた。戦後、原爆乙女の渡米治療に同行したほか、在米被爆者検診実現にも力を尽くした。

ノーモア・ヒロシマ

  浜井信三氏=広島市長。六八年、六十二歳

 人は「原爆市長」と呼ぶ。四七年に初の平和宣言を発表。復興のきっかけとなった「広島平和記念都市建設法」を実現させ、平和記念公園や原爆慰霊碑、百メートル道路などの建設を推進した。

  「私は広島市民はつねに犠牲者に対して襟を正し、何につけても犠牲者とともに在ることを習わしにしたいと願った」(「原爆市長」)

 自然崩壊の危機にあった原爆ドームを保存するため、街頭募金にも立った。六七年の補強工事の完工式で語った。

  「募金を通じて、多くのことを学んだ。何よりも貴重な教訓は多くの人の心に”ノーモア・ヒロシマ”の炎が燃えつづけていることを知ったことだ。このドームが、広島の惨禍の象徴として、長く人類への戒めとして役立つことをただ願う」

人間は戦争を防ぎ得る

  長田新氏=広島大教授。六一年、七十五歳

  「人間の心の中にひしひしと直接に迫ってゆく力を持つ芸術、文学の働きかける力は平和運動の面にも強力であると思う」

 世界各地で反響を呼んだ手記集「原爆の子・広島の少年少女の訴え」発行前年の五〇年、中国新聞への寄稿につづる。

 「原爆の子」の序文にはこうある。

  「人間は戦争を防ぎ得るという事実を、人類の新たな歴史の中に作っていかなくてはならない」

 原爆孤児を支援する精神養子運動を呼び掛けるなど、平和教育・運動の大切さを説き続けた。

平和の精神的基盤貧弱

 谷本清氏=牧師。八六年、七十七歳

 「平和の精神的基盤が貧弱だと思う。自分たちの考えている平和だけが絶対だと考えているようだが、これではいけない」

 原水禁運動分裂へ動き始めていた六一年、中国新聞のアンケートで当時の平和運動の現状を問われ、答えた。何度も渡米し、原爆の惨状を訴えたほか、原爆乙女や孤児の救済に当たるなど、行動する宗教家だった。

広島の声、僕にはわかる

 原民喜氏=作家。五一年、四十五歳

 「だが、今後も…。人類は戦争と戦争の谷間にみじめな生を営むのみであろうか。原子爆弾の殺人光線もそれが直接彼の皮膚を灼(や)かなければ、その意味が感覚できないのであろうか。そして、人間が人間を殺戮(りく)することに対する抗議ははたして無力に終るのであろうか。…僕にはよくわからないのだ。ただ一つだけ、明確にわかっていることがらは、あの広島の惨劇のなかに横たわる累々たる重傷者の、そのか弱い声の、それらの声が、等しく天にむかって訴えていることが何であるかということだ」(エッセイ「戦争について」)

 幟町(広島市中区)で被爆後、佐伯郡八幡村(現佐伯区)に逃げた体験を基に、小説「夏の花」を書いた。東京の中央線で鉄道自殺。

書く責任を果たしたい

  大田洋子氏=作家。六三年、六十一歳

  「『永遠の平和をかえしてください。』私は空に向つてそう云(い)つた。これほどのひどい目に合わされたのに、神は人類に平和をかえさぬ筈(はず)はないと考えた」

 被爆から約三カ月で書き上げた小説「屍(しかばね)の街」の一節。「原爆作家」としての原点だった。

 爆心から約一・八キロで被爆、母や妹と三日間野宿をしながら避難。すべてを失い、紙も鉛筆もなかった。「屍の街」の序文。

  「寄寓(ぐう)先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤(すす)けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負つたまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思つた」

 原爆にこだわった。五三年の座談会記事で言い切った。

  「戦争に顔をそむけての文学はありえないですよ」

くずれぬへいわを へいわをかえせ

  峠三吉氏=詩人。五三年、三十六歳

  「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」(「原爆詩集 序」)

 戦後の占領下で、詩を通して原爆投下の非人道性を告発した。戦後、広島の文学活動の中心的存在。

  「私はこの稿をまとめてみながら、この事に対する詩をつくる者としての六年間の怠慢と、この詩集があまりに貧しく、この出来事の実感を伝えこの事実の実体をすべての人の胸に打ちひろげて歴史の進展における各個人の、民族の、祖国の、人類の、過去から未来への単なる記憶でない意味と重量をもたせることに役立つべくあまりに力よわいことを恥じた」(「原爆詩集 あとがき」)

物言えぬ人間が後押し

  佐々木雄一郎氏=写真家。八〇年、六十三歳

  「十三人の供養だと思えばこそ、これまでやってこれた」
 十三人の肉親を一瞬にして失った。投下三日後に広島入りしてから、戦後撮りためた広島の写真は十数万枚。原爆ドームだけで四千枚以上を数える。ファインダーを通して、被爆建物、人の記憶などの風化に警鐘を鳴らし続けた。

  「物言えぬ人間が私にシャッターを切らせる」

地獄絵知らせたかった

 大平数子氏=詩人。八六年、六十三歳

  「地球の裏側から、いつ原爆が飛んで来るともしれないような世の中に住んでいて、三十六年前の地獄絵と、けなげに生きた少年たちの姿を、今の子供たちに知らせたかった」

 八一年刊行の詩集「少年のひろしま」への思いを語った。原爆に夫と愛児を奪われた。母親の悲しみ、平和への願いを子や孫に伝えようと、詩作を重ねた。愛児の名を繰り返す一章を含む詩「慟哭(どうこく)」は歌曲となり歌い継がれている。

失われる命、見過ごせぬ

 松坂義正氏=広島原爆被爆者対策協議会副会長。七九年、九十一歳

 「戦争目的の当否は別として、損なわれんとする生命に目をつむることは、医道の立場からいえば決して許されない」

 六九年刊行の「続広島原爆医療史」に記す。被爆医師の一人として、あの日から被爆者の治療・救援に奔走した。働くことができず、老いる被爆者の生活保証にも心血を注いだ。

平和への本能を動かせ

 蜂谷道彦氏=広島逓信病院長。八〇年、七十六歳

 「人間だれの心にもある平和への本能とも言うべきものをいつもゆり動かすことが大切なんだ」

 被爆者治療の様子などを書いた「ヒロシマ日記」を出版。各国で翻訳され、反響の大きさについて五八年、中国新聞に感想を寄せた。中区東白島町で被爆。全身にガラスが突き刺さる重傷を負いながら被爆者の治療にあたった。

    ◇

作家・井上ひさし氏に聞く

被爆者の声は「聖書」 未来への手掛かり

 被爆者が亡くなっていく時代の流れは、止めようがない。わたしたちは、その証言、訴えをどう受け止め、次代につなぐことができるだろうか。原爆を題材にした「父と暮せば」などの戯曲を作り続ける作家井上ひさしさんに、今、被爆者の声に耳を傾ける意義などについて聞いた。(城戸収)

    ◇

 ・原爆をテーマにした戯曲を初めて書き上げたのは一九九四年でしたね。
 書きたかったけど、書けなかった。初めて広島で被爆者を取材したのは昭和三十六(一九六一)年。被爆者三十人にマイクを向けたがだれも話さない。ただ、一人のおばあさんだけが「生き残って申し訳ありません」と言う。なぜ、そう言わねばならないのか、ずっと引っ掛かって。体験していない僕が考え、勉強し、表現するには三十年以上かかった。

 ・被爆者の手記が今、広島市などで収集されています。
 広島の被爆者の手記は、五万点以上あるといいます。これは記憶を書き残そうとする運動であり、大変な歴史的証言です。手記、証言はわたしたちの「聖書」と言えます。国や広島県、広島市は、書かれてあるものすべてを本にして残してほしい。

 ・被爆体験の風化が進み、体験継承に悲観的な空気もあります。
 風化はありえない。世界の核兵器は減らないが、それでも冷戦時代に比べれば減った。これは広島、長崎の力。被爆者が絶えず声を出して頑張ったことが「核抑止力」となった。でも核は残っている。核兵器がある限り、絶えず次の世代が勉強し直して語り継ぐ。ならば風化のしようがない。

 ・井上さんにとって広島、長崎とは。
 この世界で最高の地獄であり、その地獄から放たれる未来の希望。想像を絶する不幸の中で、「生きて申し訳ない」と言える人間の優しさが光となり、未来を生きる手掛かりです。

 ・では、被爆者から体験や証言を聞き、伝えることは。
 あの時亡くなった被爆者は、一部の戦争指導者にささやかだが楽しい人生を奪われた。憲法九条の改正や核武装などが議論される今の時代だからこそ、被爆者の言葉に一言半句まで耳をすまし、その悲劇を想像力を働かせて考える回路を、頭の中につくらねばならない。

 できるだけ被爆体験を聞き、大勢の人に手渡していく。広島、長崎、そして日本は、核から逃れられない人類の代表として選ばれ、その使命を与えられたと思う。「記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ」ですよ。

(2001年7月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ