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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 正岡博さん―閃光の波が襲って来た

正岡博(まさおか・ひろし)さん(90)=広島市東区

悲惨な体験 復興担う原動力に

 爆心地から約2・2キロの広島市千田町3丁目(現中区)で被爆した正岡博さんは、左の上半身や右腕(みぎうで)を大やけどして生死をさまよいました。しかし「幸運が重なって」回復。戦後は東洋工業(現マツダ)に入って専務まで務めました。「原爆の被害(ひがい)よりひどいことはありゃあせん。とにかく生きて今をよくし、人が喜ぶことをしよう」。罪のない民間人をも苦しめ命を奪(うば)った原爆を体験したからこその思いが、広島の復興の一端(いったん)を担う原動力になったのです。

 広島工業専門学校(現広島大工学部)2年、20歳だったあの日は、教官室に同級生3人といました。「何か落ちよるで」の声に窓際へ行った瞬間(しゅんかん)、「ピカッ」とものすごい閃光(せんこう)の波が襲(おそ)って来て、ホタルのように、体に無数の斑点(はんてん)が付きました。テーブルの下に隠(かく)れると、床(ゆか)が浮(う)き上がり、建物が傾(かたむ)くのが分かりました。

 一緒(いっしょ)にいた同級生と外に出て、近くの元安川につかりました。ちょうど潮が満ちていました。辺りの民家は倒(たお)れているのに、同級生の声が聞こえるだけ。静かだったのを覚えています。

 学校に引き返し、軍のトラックで宇品(現南区)に運ばれました。最初は学校近くに爆弾(ばくだん)が落ちたと思っていましたが、悲惨(ひさん)な光景を前に、何が起きたのか分からなくなりました。

 宇品には妹律子さん=当時(18)=が勤務していた暁(あかつき)部隊がありました。「妹の顔だけでも見て死のうかい」と思って寄ってみると、正岡さんのやけどを氷で冷やしてくれました。

 午後3時ごろまで休み、宇品港と広島駅を結ぶ宇品線沿いに歩いて、自宅のある尾長(おなが)(現東区)へ。「同じ死ぬなら親の元で死にたい」と休み休み向かいました。家族で避難(ひなん)場所に決めていた自宅近くの竹やぶにやっとたどり着いた時は、既(すで)に暗くなっていました。そこで父母と会えて安心したのか、倒れました。

 それから15日までは意識不明。同じ竹やぶに避難していたやけどの専門医からアドバイスを受けた母アサ子さん=当時(41)=が、食用油で溶(と)かした汗(あせ)止めパウダーを古い半紙に塗(ぬ)ってやけどに貼(は)り、その上をぬれタオルで覆(おお)ってくれました。竹やぶの近くにあった柿(かき)の葉の汁(しる)や、妹の職場でもらったペニシリンの一種も飲ませてくれました。

 川や氷でやけどを冷やしたのも含(ふく)め「幸運が重なったおかげで助かった」。8月下旬には歩けるようになりました。皮膚(ひふ)が引きつるようなケロイドも免(まぬが)れました。

 東洋工業には、1947年に入社。「現場を知りたい」と工員として働き始めました。「進学したい気持ちもあったが、原爆と敗戦で勉強どころではなくなり、家計を助けようとの思いだった」と振(ふ)り返(かえ)ります。

 最初は仕事がなく掃除(そうじ)ばかりでしたが、数年で活気が出始め、エンジン部品のシリンダー製造を担当しました。60年ごろには現場を離(はな)れ、米国の販売(はんばい)会社の立て直しにも携(たずさ)わり、88年に退任しました。「結果として、広島の復興に力添(ちからぞ)えできたかなと思います」

 敗戦で軍関係施設(しせつ)にあった物資が、あっという間に盗(ぬす)まれたと聞きました。知らないうちに焼け野原に縄(なわ)が張られ、土地を奪(うば)われそうになった人もいました。無政府状態。「それが戦争というもの」。だからこそ「平和が一番。若い人には自分なりに争いを起こさず話し合いで解決できるすべを考えてほしい」と願います。(柳本真宏)

私たち10代の感想

今後も証言取材したい

 一番の驚(おどろ)きは、正岡さんが川に飛びこんだ時、死体が流れていなかった点でした。これまで、川に多くの死体が浮(う)いていた話ばかり聞いていたからです。やけどをしたらすぐ冷やす大切さも知りました。戦争を繰(く)り返(かえ)してはいけないことも、よく分かりました。これからも被爆証言を取材したいです。(中1フィリックス・ウォルシュ)

戦争 人を変えてしまう

 終戦後は無政府状態になり、悪いことや犯罪をしても取(と)り締(し)まる人がいなかったと、正岡さんは話していました。暴徒化した人々によって、米穀倉庫の米が一晩でなくなったそうです。戦争は人を変えてしまうのです。いくら大変な状況(じょうきょう)になっても「変わらない」ということが大切。自分もそうありたいです。(中3岩田央)

理解し合う大切さ実感

 正岡さんは「向き合って話し合うべきだ」と何度も言っていました。それぞれが自分が正しいと考えて譲(ゆず)らないと、ぶつかってしまいます。嫌(いや)でも話し合って、互(たが)いを理解し少しずつ譲れる部分を見つけ出せば、衝突(しょうとつ)は避(さ)けられるのではないでしょうか。戦争を避けるのも、こうしたことの積み重ねだと思います。(中3上岡弘実)

(2015年11月10日朝刊掲載)

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