×

連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <1> 原爆

放射線測定で実態追う

 広島大名誉教授の葉佐井博巳さん(84)=広島市佐伯区=は、原爆が人間に浴びせた放射線量の推定方式「DS02」を被爆試料から確かめ日米合同で策定した。自らも体験した「8月6日」の継承活動を提唱して努める核物理学者の半生を聞く。

    ◇

 原爆は原子核の分裂を使い、人間が放射線にさらされた究極の殺りく兵器だ。陽子と中性子が結びつく原子核の分裂は1938年に発見され、開発が始まった。まさに20世紀の負の遺産。核兵器の存続は今も戦争を前提にしているからです。

 広島原爆は、ウラン235の二つの固まりを砲弾型に収め起爆装置で衝突させた。飛び出した中性子が核分裂の連鎖反応を引き起こし、さく裂前の100万分の1秒の間までに放出された。さらに表面30万度の火球と衝撃波が続き、人間を襲ったわけです。中性子線やガンマ線などの初期放射線は土壌や建物を放射能化して誘導放射線を出した。きのこ雲には放射性降下物が含まれ落下した。いわゆる「黒い雨」です。

 原爆放射線量を調べようと米国は56年から極秘の「ICHIBAN」計画を始めた。ネバダ核実験場に日本家屋を建て、長崎型のプルトニウム原爆を爆発させて測定した。国立オークリッジ研究所と、被爆者の追跡調査を行うABCC(原爆傷害調査委員会、75年に日米共同の放射線影響研究所に改組)が65年に発表したのが推定暫定値「T65D」です。

 80年代に入るとコンピューターによる理論計算が進み、広島は中性子線量が少ないことが指摘された。米エネルギー省と旧厚生省の研究チームが86年に定めた「DS86」は、医療や原発作業員の国際的な放射線防護基準の強化につながった。

 しかし、広島の残留放射線の測定値と一致しない。広島大工学部の私の研究室と現原爆放射線医科学研究所メンバーが入り、「DS02」が2003年に承認された。私は日米合同研究者会議と上級委員会の日本側代表を引き受けた。科学者として先人が残した試料や被爆建物から放射線量の測定や解析をした。正確さを追究した。そこから被爆者であることも意識するようになりました。(この連載は編集委員・西本雅実が担当します)

(2015年11月10日朝刊掲載)

年別アーカイブ