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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <2> デルタ育ち

体を鍛えて海兵に憧れ

 広島城の北側、白島(はこしま)西中町(現広島市中区西白島(はくしま)町)に生まれ育った
 生家は太田川の土手近く。JR西日本がアストラムラインと結節して3月にできた新白島駅のほぼ真下辺りでしょうか。広島デルタは城下町の面影を残し、白島は官吏や軍人の屋敷が多かったが、私のところは針製造の人の地所と長屋で、原爆の日までそこに住んでいた。

 両親は共に早く親に死に別れたそうです。父一夫は旧制中学をやめて逓信局に勤め、母千尋は女学校を出てすぐに結婚となった。13歳違い。私は長男で妹2人が生まれました。

 父が逓信局ですから物心ついた時には電話があった。近所の人たちが使わせてくれと来ていました。長屋棟の中心部には大家さんの大きな別荘があり、芝生の庭で野球や相撲を楽しんだ。それと水泳です。

 太田川に架かる三篠橋付近に満潮の1時間くらい前に行く。天然のプールは、引き潮になっても橋のくいにつかまれば溺れない。見よう見まねで覚えた。吉川清さん(後に日米のメディアが「原爆一号」と呼んだ被爆者)のお父さんからは、和船のこぎ方を教えてもらいました。近所に住み砂利運搬をしておられた。

 私の子ども時分は、やはり戦争の記憶の方が大きい。満州事変の年に生まれ、日中戦争が勃発した1937年に白島小へ上がった。戦争とともに育ったといえる。宇品港からは出兵が続いた。全国から召集された兵士が輸送船を待つ間、広島の各家庭は宿泊を提供したんです。

 わが家で過ごした兵士から送られた写真の光景を、今も強烈に覚えています。一つは銃弾が当たってへこんだ鉄かぶと。もう1枚は穴の前で中国人が縛られ、その後ろで日本刀を構える姿。人を殺す戦場や残酷さをどこまで理解したでしょうか。江田島(現江田島市)の海軍兵学校に憧れていた。親戚が教官をしていて訪れると生徒がスマートに見えた。

 体力をつけ、健康優良児にも選ばれた。(41年の)真珠湾攻撃は学校のみんなと大喜びしました。歴代天皇の名前を暗唱し、日本は「神の国」と疑うことなく信じていた。広島一中(現国泰寺高)を志願したのも海兵進学者が多かったからです。

(2015年11月11日朝刊掲載)

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