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連載・特集

『生きて』 核物理学者 葉佐井博巳さん(1931年~) <3> 広島一中

学徒動員で兵器工場へ

 日本が米英などを相手に戦い、大本営の「絶対国防圏」が崩れる1944年、県立広島一中へ進んだ
 筆記試験はなく、一中(現広島市中区の国泰寺高)の志願者は一人ずつ口頭試問に臨んだ。私でいえば、「日の丸が旗めいているのを見るとはどういうことか」と尋ねられ、「仰ぎます」と答えた。「字はどう書くのか」と聞かれ「ニンベンに…」と説明した。それで合格です。

 勉強はそこそこしていたが、白島国民学校(現白島小)で「優」の数は多くなかった。転校してきた広島鉄道局長の息子が高師付属(現広島大付中・高)へ行くというので、先生から「おまえの優を減らす」と言われた。そんな差別もありました。

 物資は乏しくなっていたが、制服や帽子は買えた。ゲートルを巻き、白島西中町(現中区西白島町)の自宅から雑魚場町(現国泰寺町)の学校へ歩いて通いました。一中は質実剛健が伝統。上級生による説教や、げんこつもあった。(現小町にあった)県女(現皆実高)の前を通っては駄目だとか言われてね。

 戦況の悪化や労働力不足から、文部省は「決戦非常措置要綱」に基づく学徒勤労動員を実施。広島県内では44年5月末から本格化し、現在の中学生以上の生徒・学生が軍需工場や農村で労働に従事していく
 1年の秋になると、可部方面へ稲刈りの動員に出ました。6クラスのうち私らの組だけが寺に合宿となった。他の組は農家に分散して白米を食べられる。担任は、洋画家として戦後に名をなされる新延輝雄さんです。

 私が寺で友達と殴り合いとなった時、新延さんに泣きながら言われました。「あなたらだけでも仲良くしてくれ」。これはこたえた。先生は美校(現東京芸術大)出の新米で古参教師にいじめられていたんです。

 上級生に続き、私らも2年生になると工場動員となった。広島市内と市外西部の在住者は地御前村(現廿日市)にあった旭兵器製作所、それ以外は(現西区高須の)広島航空。地御前の疎開工場へ行くようになったのは原爆の1週間前から。動員先が生死を分けた。市内の建物疎開作業に動員されるなどした1年生らは大変な犠牲者を出してしまった。

(2015年11月12日朝刊掲載)

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